見出し画像

雑文(70)「寛容俗物」

 違反者講習だった。
 ただ、おれの知ってるのと、ちょっと違う。
 なんでも、最近の空き缶は土に還るらしく、それを、サステ、サ、サス、サ、サ、サステ、ええっいっ、サステなんちゃらと呼ぶんだそうだが、ともかくだ、空き缶拾いじゃない。
 エーか、ビーか、シーか、なんのアルファベットか忘れたが、なんちゃら遺伝子を打った。打ったって言っても、愛想笑いの女性看護師が痛くない激細針の注射を腕に打っただけだ。皮膚は数日でみるみる真緑になり、おれの真っ裸を診察した医師はうんうんとなんどか頷いて、「葉緑体が発現してます」と笑顔だった。発現? とおれは首を捻ったが、なんか特殊能力を得たみたいで嬉しかったし、医師も笑顔で喜んでいたから、おれも笑顔になって、頭を下げて診察室を後にした。
 植えられた。
 食事はいらない。太陽光を浴びたら満腹になるらしく、嘘だー、って最初こそ半信半疑だったが、実際日中に浴びた太陽光のせいで、胃もたれした。
 立ってるだけだ。そりゃあそうだよ。たまにだ。だらしなくべろを出した犬っころにしょんべんかけられるけどさ、それだけだ。後は、立ってるだけ。しょんべんだってすぐ乾く。
 脇見運転だった。
 聞いてほしいんだが、立ったままじゃ暇だから、ついついお喋りになる、愚痴りたくなる。
 歩道をさ、あの、あの有名な女優さん、いま旬のアマベイナミが歩いてたら、誰だって脇見運転するだろ? って取調室で担当刑事に熱弁したらよ、この有様さ。てか、空き缶拾いよりだいぶマシだ。腰と膝が悪いから空き缶拾いは正直こまる。立ちっぱなしだがよ、あの、超有名な、アメリカの文豪ヘミングウェイじゃないがよ、立ちっぱなしも慣れたら楽だ。
 まあ、皮膚が樹皮みたいに硬くてさ、脚だって樫みたいに硬いし、医師は副作用だと言うが一時的だと汗掻いて熱弁してたから一時的なんだろう。真緑の皮膚だって論文だと一週間で薄くなるらしいが、一カ月経っても薄くなるどころか濃くなって、様子を見に来た医師に、「よかったな、新しい論文書けるな先生っ。新記録だ」と、数日前に笑って言ったばかりだ。先生も笑ってたから、よかった、よかった。
 いやね、立ったまま一日立ちっぱなしも悪くない。いろいろ考えて人生を振り返る機会だよ。違反者講習も捨てたもんじゃない。空き缶拾いじゃわからない、この体験を経ておれは変わったよ。脇見運転はもうしない。歩道をさ、オシオカイホが、アシモトアンナが、オダエリカが、イオリオエが、そうだ、イケダエライザが歩いてても、おれは真っ直ぐ前を見てハンドルを握ってられる自信があるね。
 おれは達観した。
 立ってるだけで幸せだ。太陽光を浴びてるだけで幸せだ。しょんべんはすぐ乾くから気にもならない。下手したらおれの栄養分になるからありがたい。感謝だね。犬っころに感謝だよ。おれの足元に養分届けてくれてありがとう。それにだ。お日様ありがとう。おれのお腹を腹一杯にして、胃もたれまでしてくれて。立ってるだけで、なにも起こらない平穏な世の中にありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。
 違反者講習ありがとう。
 気付きだね。おれにこんな有意義な機会を与えてくれて、関係者のみんなみんなありがとう。脇見運転しかして来なかったおれに、真っ直ぐ前を向いて運転する大切さを教えてくれて、ありがとうございます。

 それから数ヶ月後。
「おいっ、誰だよっ」男の声がした。
「すみません」若い男の声がした。
「だめだって言っただろ? 逮捕されたらおまえのせいにするからなっ」
「そこは先輩の監督責任で」
「政治家の裏金じゃあるまいし」
「おれ会計責任者ですかっ」
 ふたりの男は仲良く笑い合って去って行った。
 おれは笑った。
 見上げていた。
 土埃が数センチメートルだけ、舞った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?