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雑文(43)「ハラキリ」

 部長が腹を切って、もう半年は経つだろうか。
 通勤時間で混んだ山手線の車内で、日ごろ受けているストレスのせいなのか、仕事に真面目だったあの部長がなにを血迷ったのか、乗降口近くに立っていた女子高校生の身体を触ったという痴漢の容疑で逮捕された。
 最初こそ容疑を否認していたが、警察の苛烈な取調べと元来のノイローゼ気質だったこともあって、約2週留置されたのち部長は容疑を認め、留置所を出て刑務所に収容されるのではなく、彼の強い希望で、「腹切り」が執り行われることになった。
 実際社会的地位が著しく低下する罪を犯したその多くが、この「腹切り」を選び、その名誉を守ることは一般的で、彼もその慣例に則って潔い死を志願した。
 あれからもう、半年は経つのか。
 
 こう回想にふける僕は、長テーブルやパイプ椅子が隅に片づけられた、その大会議室の中央に正座してあって、真後ろには正介錯人の係長が僕を見下ろして立っていて、その隣には今年入社したばかりの大卒の男が副介錯人として備えてあった。
 湯漬けを胃に流しこんだ僕の目の前には、三方に渡したむき出しの白鞘の短刀が、まさに奉書紙を巻き解いた刀身が、会議室天井の照明器具でキラリと妖しく光ってあって、刀の表面にはゆらゆらと後ろで控える係長の険しい表情が窺えた。
 特注で拵えられた浅葱色の真新しいスーツを上下着せられ、床の絨毯にも同じく浅葱色が採用され、それは処断後簡単に取り替えられるような仮設の施しがされてあった。
 「腹切り」を言い渡され、ほどなく僕は自決をせざるを得なくなった。
 大会議室には僕と、正/副の介錯人である係長と新人、あと検視役を仰せつかった事務員の女性が出入り口近くの机の前に座っていた。
 
 覚悟を決めないとならない。
 午後からここで会議があるようなので、戸惑っていると会社の迷惑になると、昼食抜きは困ると、僕の背後で僕に聞こえる小声で二人が喋っていて、額から垂れ落ちた汗でにじむ奉書紙に目をやって、僕は喉の奥から、「おっお願いします」と声をしぼった。
 ようやくか、と係長が僕の背後に近よってきて、手に持った太刀を宙に構えるのが、その気配でわかった。新入社員の男もすかさず拾えるように、片足をついていまかと待機してあった。
 恐る恐る僕は短刀の柄を掴み、その重さを振って確かめる。軽い。この刃先で僕の腹を割いて、腸をさらした僕は最期首を斬られるのか。これもすべて自分の行いのせいだとはわかっているが、想像するだけで怖い。
「さあ、どうぞ」と、係長が急かしてくる。
 わかってる、とは答えず僕は、その刃先を腹に当てて、真横に躊躇なくかっ斬る、と唱えながら勇気を振りしぼり、その恐怖に耐えて、意気地なしの自分を奮い立たせる。
 仕事中に携帯端末をいじっていて、それを同僚に告発されて、上層部はその処分として、「腹切り」を言い渡した。すべて僕の怠慢であった。言い逃れはできない。携帯端末をいじったのは、まぎれもない事実なのだ。
「さあ」と、もう一度急かしてきたとき僕は腹を横一文字に割いていた。

 午後から小雨が降るそうだ。
 
 びゅっと空気を裂く風音が聞こえたと思ったら、迷いなく僕の首元を狙って、抜けた白刃は床の絨毯を軽くえぐって止まったのが、見てとれた。
 ずれゆく意識の中で、会社ビルのガラス窓に水滴を叩きつける雨音が会議室内に響いていて、しゃがみ込んだ社会人1年目の大卒あがりの男が耳元で、雨か、傘忘れたと、拍子抜けするなんとも間抜けな一言を呟いて、首を持ち上げた新人を目を細めて見つめる事務所の女性が遠くから、会社に1本ビニール傘が予備であるから貸してあげると、柔和な表情で言った。
 
 ほら、降ってきた
 
 それが僕が最期に遺した辞世の句になった。

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