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平和を希求する模範的高校生だったぼくは、なにも知らなかった

2010年8月6日。
ぼくは被爆都市ヒロシマに生まれ育った平和を希求する模範的高校生だった。高校生代表として当時の国連事務総長に挨拶し、地元紙に大きな記事が載ったりもした。

しかし、ずっとどこかモヤモヤしていた(そんなモヤモヤを卒論にぶつけた話を以前書いた)。

あれから10年が経過し、ことしは小さな空気感の変化を感じている
ぼくが17歳から27歳になったこと、被爆65年目と75年目のもつ意味の差異、そしてこの10年間という時の移ろいもひっくるめて、なにかが変わりつつある気がしている。

そんなとりとめもない感覚をここに書きつけておく。

平和を希求する模範的高校生の2010年8月

この年、当時の潘基文事務総長が、国連事務総長として初めて8月6日の広島市の平和記念式典に参列した。

これに際して、地元の学生と交流する機会をもちたいということで、広島市でなんとなくそういう役回りだった母校に白羽の矢が立った。

当時高校3年生だったぼくは、受験生ではあったものの、なんとなくそういう役回りの模範的学生だったので、高校生の立場から国連事務総長に質問をする10人くらいの学生の一人となった

前日から当日にかけてメディア各紙の取材があり、「絶対に事務総長への質問にたつ人の声を聞きたい」というリクエストを受けて、なんとなくこいつかなということで肩をたたかれ、地元紙と全国紙の取材をそれぞれ1時間ずつくらい対応した。

8月6日当日。午前中の式典などを終え、いざ事務総長が来校。屈強なSPが脇を固める中、なんだかありがたい話を伺う。なんだかありがたい話が続く。さらに続く...

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©The Official CTBTO Photostream CC BY 2.0

予定では、5-10分程度のあいさつのあと、われらが選ばれし模範的高校生たちの素朴な質問に事務総長がお答えなさる段取りだった。たしかぼくは6番目くらいに質問することになっていた。質問する文言は事前に英語の先生の確認を経て、教育委員会の偉い人も交えて入念な予行演習も行っていた。

ところが、事務総長がのっけから滞在予定時間の大半を大変ありがたいお話に使ってしまった。質問パートに移るやいなや、司会の教諭はいきなりぼくを指名。まじかよ。この場は教育的公平性よりも、メディアに絶対に質問するやつとして載ってしまったことが優先する。

段取りでは、最初に質問する模範的学生①が、ご来校いただき光栄です的な丁寧なあいさつをしたのちに質問に入るはずだったが、これがすっ飛んでしまったので、模範的学生⑥ことぼくがたぶん文法的には正しくはない前置きをして、いざ渾身の質問をした。

「核廃絶が大切というが、いざ核兵器が廃絶された暁にはどんな世界が待っているのか」

事務総長からありがたいご回答をいただくこと、またしても5分以上。

未来のリーダーである皆さんに希望と平和のトーチを引き継いでほしい

こんなメッセージは何となく覚えている。が、残りの大変ありがたいお話は恥ずかしながら失念してしまった。

ぼくの後にもうひとりだけ質問する機会を得たのち、たしか合唱をして会は終了(こういう場面でなぜか合唱する話は以前の記事でも触れた)。
事前に取材いただいた全国紙の記者さんに感想を問われ、素直に苦笑いしたのを覚えている。

貴重で有意義な時間だったといえばそうだし、こんなの茶番だと糾弾することもできなくはない。ともかく当時は模範的な学生の役回りを全力でこなした。

模範的高校生、モヤっとする

メディアの取材については、しばしば不満を耳にする。

言っていないことを言っているように編集されたり、熱を込めて語ったことをバッサリとカットされるといったことは、おそらくあるあるなのだろう。字数制限や媒体としての立ち位置など要因は様々かと思うが、最近考えているのは、語られることと編集のギャップこそが、言説と空気感を反映しているのではないかという仮説である。

蝶のように舞い、蜂のようにブッコむ模範的高校生ことぼくも、地元紙の記事に「家族に被爆者はいないが」という枕詞を付けて紹介されたことにずっとモヤっとしていた。

これからは僕らが次代へ伝える責任がある
将来は国際的に活躍できる仕事を目指し、自らヒロシマを伝えたいと思う。

こんなこともたぶん言っていないことはないと思うけれど、すくなくとも胸を張って語った部分ではない。いちいちケチをつけても仕方がないのだが、高齢化していく被爆者の声を若者が次世代に伝えていくことへの期待のまなざしがあったのは確かだった。とはいえ、期待されるほうもどこまで大真面目に受け止めれればよいものか困ってしまう

被爆の実相と核兵器廃絶への思いをどこまでも大真面目に追求していくと、実相とは、思いとは、次世代とは、という調査と分析と思想がないまぜの禅問答が始まってしまう。

だいたい、ヒロシマというカタカナ表記は、原爆、反核、平和といった文脈で被爆都市を語るときに用いられるが、漢字やひらがなとどう使い分けるべきかという論点だけで無数の立場がある(福間良明ほか「複数の『ヒロシマ』」に詳しい)。

しかし皮肉にも、実際のところはそこまで深く考えることを期待はされていない。平和を希求する若者を演じ、子どもながらにお得意の「それっぽいこと」を嘯くことが「正解」だったのだろうか。どうしたものか、物事に大真面目に向き合えば向き合うほど、期待されたルートから全力で外れていく

この10年の変化

ときは流れ、進学、就職のため故郷広島を7年ほど離れた。そして2年ほど前にまた戻ってきた。

定期的に帰省していたし、知人友人が広島に来れば平和記念公園や原爆ドーム周辺を何度か案内した。フランス、ブラジル、中国などからはるばるやってきた海外の友人を案内したこともあった。それぞれの国にそれぞれのたどった歴史と認識はあるものの、資料館の展示は一様に心を打ったようだった。

広島の外に出て気づくことは多い。

8月6日という日の捉え方は広島(市)の内外でやはり異なる。

大学1回生の8月6日には、当時取り組んでいた英語ディベート大会で憲法9条改憲の是非を問う論題が発表された。ぼくはデリカシーがないと多少憤慨したものだが、この感覚はあまり共有できなかった。

その後、大学3回生となった2013年6月23日、沖縄慰霊の日の調査に行った。沖縄戦の記憶を涙ながらに語るおばあの話をメモに取った。そういえば、これまで何度も聞かされてきた被爆体験講話の会はどちらかというと淡々としたもので、そこまで涙する人は多くなかったように思う。

ハワイのパールハーバーや、祖父が戦時中に駐留していたというインドネシアの最西端ウェー島を訪ねたりもした。

卒論はヒロシマと音楽について取り上げた。

ヒロシマと関わる音楽実践に携わる人たちを分析対象として客体化し、そのあまりに微妙な距離感を扱ううちに、被爆都市ヒロシマに生まれ育った模範的若者としての主体性はほとんどなくなってしまった

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そしてこの間に、広島というまちにとっての8月6日の位置づけも変化したように思う。
幼少期の記憶では、7月中旬ころからローカルニュースは盛んに原爆特集コンテンツを放送していた。被爆者の現状、核廃絶運動、語り部の後継者問題、慰霊のあり方、平和教育の取り組みなど、トピックも様々だった。

その変化のひとつのきっかけは、豪雨災害だったように思う。2014年8月2018年7月の2度にわたって広島を集中豪雨が襲った。特に2018年の災害(通称西日本豪雨)は被害が広範囲にわたり、全容を把握するのにも時間がかかった。ほとんど7月中がこの話題で持ちきりで、8月6日の直前までそれどころではなかった。

被爆者は高齢化し、現在その平均年齢は83歳を超えた。それに伴って各種の運動が規模を縮小していったタイミングと豪雨災害の混乱が重なったとすれば、だれかがなにかの区切りをつけるひとつの引き金となったのかもしれない(数字は追えていないので、詳しい資料や調査があれば教えてほしい)。

*追記(2020/08/10):2014年8月の平成26年8月豪雨による広島市の被害は8月19日から20日にかけて降った雨によるもので、8月6日の原爆の日関連の行事やコンテンツの変化とは直接の因果関係がないかもしれない。それよりも、8月の暑さが増したという影響の方がありそうだとあとから思った。

2020年夏

新型感染症の影響が広がり、今年も豪雨災害が各地を襲った。かと思えば、間髪入れずにうだるような暑さが続いている。

8月6日を迎えるにあたり、今年も様々な特集が組まれたが、そのなかでも広く読まれた3つのコンテンツはこれまでのものとは少し性質が異なるものに思えた。

-ひろしまタイムライン

まず特筆すべき取り組みとして、NHK広島放送局「ひろしまタイムライン」に触れねばなるまい。もしも1945年にSNSがあったら、という企画で、実在の日記をもとに中学1年生のシュン、新聞記者の一郎、疎開中の妊婦やすこの3人のアカウントが日付を合わせて毎日発信をしている。

とかく被爆体験が語られるとき、「どこで被爆したのか」、「いつ被爆地に入ったのか」という空間・時間的な基準が序列化の力をもってきた(この点は社会学者 直野章子氏の論文に詳しい)。

その点、本企画の焦点は8月6日と爆心地からの同心円上の距離に収斂しない。時間的にも空間的にも広がりを持った情報となっている。

終戦間近の時期とはいえ、それぞれの生活の延長線上に原爆投下があり、そしてその後がある。そのことを頭ではわかっていても、どうしても身近に引き付けられるリアリティがなかった。

SNSのタイムラインは、現代人が他者を垣間見るのに格好の場となった。いま現在の情報のなかに、75年前の刹那的な時間軸が流れていった。企画の勝利だと思う。

-久保田智子さんの記事

元TBSアナウンサーの久保田智子さんの記事も、Yahoo!ニュースに掲載され広く読まれていた。

広島出身でありながら、「原爆を避けていた」という感覚はとてもよく理解できる。

広島出身であることの「正統性」について、外部の期待と当の本人の認識の間にはギャップがある(地域発で国際協力を行うNGOがいかに信頼を獲得するか分析した地理学の論文が似たことを指摘していた。)。

久保田さんはTBSを退職したあとニューヨークに移り住み、大学院でオーラルヒストリーを専攻した。そして被爆体験の伝承者となった。

被爆者へのインタビューをするうちに、「平和学習」の枠では1945年8月6日に焦点を合わせて体験を語ってきたが、「個人の感情でいうと、実は被爆した日よりも、それ以降の方が大変だった」といった話がポロポロと漏れてきた。

なにかを伝えることは決して簡単なことではない。ずっと広島の中にいると、その謙虚で当然の認識がだんだんと失われていたことに気が付かされる。

話を聞く人と被爆者の間で世代間ギャップがあり、価値観が違う。その溝を、聞き手としてできるだけ寄り添うことで埋め、思いを受け止める努力が必要です。
そうやって思いを受け止めた上でも、伝承者の話を聞きに集まってくれる人との間にも、また溝がある。それを埋めるためには、今度は聞き手に寄り添って聞き手の立場で説明してあげないと、私を介して溝をなくさないと、伝わらないんです。

久保田さんは先のNHK広島放送局の企画にも携わっているということで、さもありなんと膝を打った。

-田中泰延さんの記事

元電通のコピーライターである田中泰延氏による記事が、「国際平和拠点ひろしま」という広島県のサイトに掲載された。父親の故郷である広島をめぐり、各所で感じたことを文章にしたもの。

そのなかで、こんな記述があった。

1955年に亡くなった佐々木禎子さんのことも、僕は初めて知りました。

佐々木禎子さんは2歳のときに被爆したものの、その影響を感じさせず元気に育ったが、その後白血病を発症し12歳で亡くなった。病床で回復を願って折り鶴を折ったエピソードから原爆の子の像のモデルとなった少女である。

佐々木禎子さんのことを知らなかった ──。

このことを広島県のメディア(?)に大っぴらに書けることはひとつの小さな革命だと思う。

広島平和記念公園の原爆の子の像のもとには世界各地から無数の千羽鶴が届けられているが、佐々木禎子さんはその端緒となったエピソードの張本人であり、平和教育の文脈でまず一番に語られる人物のひとりである(その意味では、「物語」が一人歩きしている側面もある)。

広島の地でずっと暮らしていると忘れがちだが、これは一般常識とまでは言い難い。1999年から2000年に広島市あてに折り鶴を送った個人と団体へのアンケートによれば、「サダコと千羽鶴」の物語を知っていると答えた人は国内でも6割程度である。

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「原爆の記憶を風化させてはならない」「記憶を継承するためになにが出来るか」ずっとそんなことが叫ばれてきた。広島・長崎それぞれの投下日を答えられない人が増えているからどうにかしなくてはならない、というニュースが定期的に流れる。

そこで一歩立ち止まって、1945年8月6日は75年もむかしの出来事であるということを認めることヒロシマについて知らない者がヒロシマについてものを書いてよいこと。このハードルが随分と高かったように思う。

「8月6日の惨禍を忘れない」「核兵器廃絶への思いを受け継ぐ」と繰り返し発言してきた人の多くが、そもそもなにも体験していなかったし、知らなかった。このことを自覚してこなかった

遠い過去の出来事を、どうしたら2020年を生きる人たちが身近に感じることができるか。問いが変われば、企画もできる。

ヒロシマとの距離感

ヒロシマという語はとても強い意味の磁場を持ってきた。それゆえ、ちょうどよい距離感を保つことは簡単ではない。

広島のなかで活動するときには、自らが関わりうる立場にあるのかなど、気にかかることが山ほどある。そのせいか、正直なところ平板化し硬直化したものも多い。

こと表現という意味では、ヒロシマというものと自らの間に距離感を定め、意味の授受を繰り返し作品やパフォーマンスを高めていく、新しいものを生み出していくプロセスがある。その点、広島以外の地で表現すること、あるいは広島でない外からやってきて発表することは、決してデメリットとはならない。

-シクステ・カキンダ Intimate Moments

カキンダはコンゴ民主共和国出身で昨年東京藝術大学大学院を修了。修了制作をベースにしたギャラリーGでの初個展に伺った。

彼の母国は第二次世界大戦中はベルギー領で、世界有数のウラン鉱山だったシンコロブエ鉱山で採掘されたウランは米国に提供され、広島に投下された原爆の材料となった。

広島で行った錠剤を用いたパフォーマンスと被爆体験のナレーションを収めた3画面の映像作品とドローイングが展示されている。約50分の映像作品の一部は彼のウェブサイトから見ることが出来る。

アフリカから日本にやってきた彼がヒロシマを見つめる視線は、基本的に外部者のものとして構成されている。個別の3つの画面を通じて俯瞰的な視点を獲得しており、鑑賞者は平和記念公園や慰霊碑周辺を歩き回ることと、被爆体験と、これまで全世界で2000回以上行われてきた核実験について同時に受け取る。

対象から距離をとらないと俯瞰視することはできない。自己と場所との間に距離を取ることで初めて表象が可能になる。

その意味で、彼の作品はいまだかつて広島であまり見たことがない「テンション」で進んでいたのが新鮮に感じた。

ギャラリーG
Sixte Kakinda solo exhibition “Intimate Moments”
会期:2020/8/4 Tue-8/9 Sun
時間:11:00-20:00 (Last day-17:00)
http://gallery-g.jp/schedule/sixte-kakinda/

-広島県立美術館「日常の光」展

ギャラリーGの向かいにある広島県立美術館で開催されている、広島県出身の6人の写真家がどのように広島と向かい合ったかを紹介した展示。当初予定されていた展示が延期となり、急遽企画されたと聞く。ギャラリートークの様子がInstagramで配信されている。

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戦後復興期を写す写真に写る子どもたちの笑顔がなんと屈託のないことだろう

途上国の子どもたちはどうしてあんなに元気に見えるのだろうか、という話を先日友人としたのだが、その姿をほんの何十年か前の広島に見た。

戦後から現代へ移り変わる時間軸は、資料館や歴史の教科書ではエピローグ的に端折られる。しかし、平成生まれのぼくにとっては、「戦後」のほとんどは知らない世界でもある。

当然、ずっと日常が積み重ねられていまに至っているのだが、いざその一瞬が切り取られた写真と不意に美術館で対面すると、なんというか、歴史認識を改めさせられる思いがした。

広島県立美術館
日常の光 写しだされた光
会期:2020(令和2)年7月23日(木・祝)~8月23日(日) 
日時:9:00~17:00
※金曜日は20:00まで開館
※入場は閉館の30分前まで
会場:広島県立美術館 3階展示室
休館日:月曜日 ※8月10日(月・祝)は開館
所蔵作品展の入館料 一般510円(410円)/大学生310円(250円)

-基町アパート

広島県立美術館とギャラリーGを訪れた日、たまたまカキンダさん一行と基町アパートを訪れる機会にフワッと誘われ、はじめてその上層階に登った。

市営基町高層アパートは、基町不良住宅街(通称「原爆スラム」)の解消を目的に造成された大規模集合住宅・住宅団地である。

これまで用事もなかったし、中心市街地からそう遠くはないのにもかかわらずいまいちアクセスが良くないので、どうも縁遠い場所だった。

ここ数年は、オルタナティブスペース広島市立大学のアートプロジェクトが展開しており、時々展示を見に行くようになっていた。

しかし改めて構造を知ると不思議な建築である。この土地はかつて軍関連施設が立地していた国有地。周囲に高い建物がないため、各方向に異なる景色を眺望できる。上階からの眺めは、知らない広島の風景だった。

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