見出し画像

まじめに京大文学部生をやりすぎた結果、アートの道に進むまで。

こんにちは。山本功(ヤマモト @equem_mm)です。
はじめまして。広島と瀬戸内エリアを拠点にタメンタイというアート事業に取り組んでいます。

小さいころは地図が大好きで、漫画を読むようにえんえんと眺めている少年でした(代わりに漫画は読まなかった)。好きが高じて京都大学に入学(得意科目で苦手科目をカバーした)。文学部で地理学を専攻しました。大学まで美術とはほとんど積極的な関係はありませんでした。

当初は地元で公務員?などと言っていたのに、卒論にのめりこむあまり、めぐりめぐって新卒で「アートの島」こと香川県直島に就職し(ただし業務はコメづくり)、いまは美術の分野でお仕事をしています。

気候や立地分布を扱うイメージの地理と、美術館やギャラリーのようなアートの世界はなかなか連想されないですよね… 
個人的には全部つながっているつもりなのですが...

そんなこんなで自己紹介がいつも手短に終わりません。
人によって説明の仕方を変えることも多いので、初対面の人と会うときはすごく頭を使います。ときどき疲れてしまいます(笑) 

そこで、どうしてこんなキャリア選択になってしまったか、思い悩み抗いながらも落としどころに折り合いをつけてきた大学4回生の1年間と進路選択について振り返ってみました。なんか変わってるけど、こんな人もいるんだなと生暖かく見守っていただけると嬉しいです!


2014年春 -卒論と就活

大学3回生から4回生になり、通常であれば就職活動と並行して卒論のテーマを設定する時期です。

ヤマモトが専攻した地理学は、人間と地球表面上の事象の関係を分析する学問です。平たく言えば、土地の理を明らかにするもの。その対象は多岐にわたります。

地理学は、土地・水・気候などの自然と人間生活との関係を明らかにしていく学問です。人文地理(人口・集落・経済・政治・民族など)、自然地理(地図・気候・地形・海洋など)、地誌(地域ごとの自然・文化・産業など)の三つが主な研究分野です。地球科学などの自然科学とも、深いかかわりを持っています。なお、理学系統の地球科学は自然現象そのものを対象とする学問なので、地理学と混同しないよう注意が必要です。
ベネッセ・マナビジョン 学問情報|地理学

画像9

ちなみに、大学受験地理で覚えるケッペンの気候区分ですが、少なくとも出身大学文学部の地理学専修で扱った記憶はほとんどない。
(画像:"World map of the Koppen-Geiger climate classification system"

地理学専修で扱う卒論のテーマはさまざまです。たとえば同期が取り上げていた研究対象は、離島におけるコミュニティ、地場産業、移動サービス、海外における日本人コミュニティなどがありました。研究対象は多様でも、めいめいに地理学的に考察することが求められています

そこで、ヤマモトはヒロシマと音楽をテーマに卒論を書くことにしました。音楽を通じて、広島という場所(あるいはカタカナで「ヒロシマ」と表記される被爆都市としての歴史、あるいはその地名)と、人はいかに関係をとりもつかを分析しようと思いました。

所属研究室卒業生の進路は、官公庁やインフラ系などの「お堅い」就職先が多い傾向でした。ぼくも地元志向はあったので、大学3回生のころは「広島に帰って公務員にでもなるかな」と言っていました。そのうえで広島で公僕としてやりがいを見出せるとしたらなにができるだろう?たとえば平和行政とか?となんとなく考えていました。

時を同じくして卒論のテーマも考えなくてはならない時期。どうせなら就職に生きることを研究しようと考えました。そんなとき、高校時代の体験と疑問を思い出しました。

なぜ平和を願う場では歌や音楽が演奏されるのだろう?

なぜか歌うのです。
広島市で小中高と生まれ育ったので、平和学習としてさまざまな「平和の歌」を習いました。広島に修学旅行でやってきた中高生が平和公園で合唱していたり、毎年8月6日の平和記念式典前後にいたるところで開かれる慰霊祭や集会でも歌声が聞かれます。

じつは高校では国際コミュニケーションコースなるものに通っていました。そして、平和都市ヒロシマの学生を代表して諸外国からの賓客のお出迎えを仰せ仕る機会が何度かありました。そうした場で、なぜか決まって「平和」に関する歌をクラスで合唱しました。音楽系の部活もあったのにな…

国際系のコースなので、クラスに男子は数名。合唱練習をやると
「ほら男子、ちゃんと歌って!!」
となります。
まあまあ声は大きいほうだと思っていたのですが、
「口があいてない!!」
と怒られたのを今でもトラウマのように思い出します... つら...

さて、いったいなぜ「平和」の場で「音楽」なのか。

その謎を解くため、ヒロシマをテーマに歌い、演奏する人たちにインタビューを実施。立場や環境も全く異なるひとたちの話を伺いました。そしてそれを一本の論文にまとめるにはどうしたらよいかと理論構築を試みました。

その結果、哲学書に行きつきます。地理学の卒論なのに、問題意識の骨格はジュディス・バトラーに依拠しています。

自分自身が何者であるか、何をしているのか説明するとき、その説明する言葉は社会と規範によって既に意味づけられている。そのうえで自分自身が自分自身であることを説明することがいかに困難であるかと思い悩みバトラーの本を読んでいたのが大学4回生になる春。そう、本来であれば就活真っただ中の時期です。

権力構造の中で主体的にあろうとすればするほど権力に従属してしまう構造について考えている学生が、とてもリクルートスーツを着て美辞麗句を連ねて志望理由を語れる精神状況にあるわけがありません。
当初言っていた地方公務員も、一応説明会に赴けど、言語感覚の違いに愕然とし志望意欲を喪失します。さよなら、安定。

大学院進学も当然検討はしましたが、諸般の事情でそれも難しそうということで、プチグレ。就活が話題になるグループLINEから脱退したり、友人との連絡も滞りがちに。

2014年夏 -直島での就職という選択肢

さあ果たしてこの状況でどこかに就職するにしても、果たして受け入れてくれる企業などあるのだろうか。ぼくの居場所はどこにあるのだろうかとGoogle先生にあれこれ訊ねました。

とにかく現代資本主義社会の不条理さが憎くて仕方がなかった様子(笑) その権化たる東京が嫌いで、都市から離れて地方や田舎でなにかクリエイティブなことができないかと探していたらしい。

そんな時に検索に引っかかったのが、「アートの島」こと香川県直島での新卒募集でした。

アートなら、訳が分からないことを言っても居場所があるのでは?

そんなかすかな希望を持ちました。そして、美術館などを運営する福武財団の理事長あいさつのページにはこんなことが書いてありました。

 日本の近代化を振り返ると、都市を中心として、在るものを壊し、無いものをつくるという考え方のもとで、刺激と興奮に満ちた社会をつくりだしました。しかし、先の東日本大震災や、原発事故を見るまでもなく、すでに、その価値観は大きく揺らいでいます。
 私は、東京から岡山に拠点を移して以来、“在るものを活かし、無いものを創る”を信条に、よく生きる地域をつくること、お年寄りの笑顔が素晴らしい地域をつくることこそが、これからの時代には最も重要な理念と考えています。私は今まで20年間、直島において、その地域に住む人々や行政の方々、そして、地域の変革の媒介となる世界中のアーティストや建築家等様々な方々とともに、試行錯誤を重ねながらも、地道に新しい地域づくりを行い、すでに、直島には世界中から多くの人々が訪れています。
(公益財団法人福武財団 ごあいさつ)

もしかすると、ここはまじで居場所かもしれない。とはいえ、半信半疑です。

私は、直島における、この世の極楽のコミュニティの経験を、さらに直島以外の瀬戸内の島々にも広げ、それも直島と同じものではなく、それぞれの島の文化や個性を生かした形で、島の人々やボランティアの皆さんと一緒に作ろうと思いました。
そして、その事が出来るメディアは、良質の現代美術を除いてまだ私は知りません。現代美術は、人々を覚醒させ、地域も変える偉大な力を持っていると信じています。
(瀬戸内海と私――なぜ、私は直島に現代アートを持ち込んだのか)

果たして現代美術とやらにそこまで強力な力が宿っているのだろうか?地域性を美化しすぎてはいないだろうか?そもそも死生観がおしつけがましくないか?まだ疑念は尽きません。

いっぽうで、かなり長い期間にわたって活動が続いているようで、そのことで少しはやりやすさがあるのではないかという打算はできました。

いきなり縁もゆかりもない田舎に身一つで飛び込むのは、田舎特有のウェットな人間関係をうまくやりくりできるか、懸念と不安があります。地理学専修ではフィールドワークとインタビューの機会も多いので、「田舎できらきらスローライフ☆彡」のような幻想への警戒感は人一倍あるのです。

なにはともあれ行ってみないことにはなにもわからない。そこで、大学の友人と一緒に遊びに行くことにしました。

画像1

同行の友は所属していた自転車競技部の同期と後輩。うち1人は以前に直島を訪れたことがあるらしく、いまいち調べてもよくわからなかった島の情報について経験があって心強い。細かいことは案内してもらうつもりでいました。

港の前でレンタサイクルを借り、島をぐるっと回ってみることに。自転車競技部員にとって電動自転車は邪道。分かれ道では坂道はきつい方を選びます。馬鹿です。

そしていきなり積極的に道を間違えて、ふつうは観光客が通らない道に迷い込みました。ぜんぜん美術館につかないじゃん...

貧弱なヤマモトがゼエゼエいっているかたわらで、ツレが庭先にいた島のご婦人に話しかけていました(人見知りで警戒感が強いヤマモトだけでは、いきなり地元の人に話しかけるなんてできなかったでしょう。こういうときは、向こう見ずにツッコめるやつは強い)。ご婦人は、

にぎやかになったのはいいけど、美術館は高いよねえ。

とかそんなことを、朗らかにおっしゃっていた気がします。

じつは観光客と島民は良好な関係を築けているのか、最初はかなり訝しんでいました。我々観光客は歓迎されない存在なのではないか、邪魔になってはいないかと、少なからず心配していました。

けれども、少なくともあからさまに煙たがれることはありませんでした。このことに、すこし胸をなでおろしました。

そんなこんなで島をひとしきり一周したところで、直島に来たことがある友人が、

『美術館は前に見たから、魚釣りしてるわ』

などといい始める。なんじゃいと思いながら、もう一人の友人と家プロジェクトを回り、なるほどこれがアートかと月並みな感想を共有。

その後また合流し、ああだこうだ言いながら一緒に銭湯に入りました。

画像2

直島銭湯「I♥湯」

男3人で裸の付き合いをしていると、長髪の西洋系の男性から話しかけられました。国際云々コースを卒業し、いちおう英語ができるヤマモトは意気込んで世間話をしました。お前は英語の方がよく喋るといじられがちです。

いい湯だったねと銭湯を出ると、先ほどの長髪ガイが番台のおじさんと世間話をしています。ん?めっちゃ日本語しゃべってるじゃんww

聞けば、日本で英語教師をしているとのこと。なんだよ。

宿に戻り、共有スペースで馬鹿話をしていると、今度はアメリカから来たという男性とお話をしました(彼こそは日本語はできなかったので、英語でOKだった)。聞くと、建築の設計をしているそうで、ニューヨークのバスケットボールスタジアムの柱を設計したらしい。たぶんすごい。

のちほどFacebookを見ると、銭湯のロン毛ガイも宿の設計士も名門大学を出ているらしい。なるほどこの島を訪れている海外の人たちのなかには、多分にエリートが含まれているのか。いまでこそ海外からの来訪客数は増える一方でしたが、2014年当時にはすでに知る人ぞ知る存在となっていたのでしょう。

日曜日と月曜日の行程で直島にやってきたのですが、月曜日はほとんどの美術館が休み。宿の人には豊島に行くことを勧められたのですが、朝になってなんだか気乗りせず、直島を1周歩いて回りました。自転車だと数十分の道のりも歩くと2-3時間ほどかかります。おそらく同様に休館日難民の若者もちらほら。

それでも時間がつぶれないので、売店でノートを買い(めっちゃいいノートしか売っておらず、1000円以上した...)、景色の良いところでスケッチをしました。絵を描いたのなんて高校の美術の授業ぶり。出来は可もなく不可もなく。

とにかく、とても気持ちいい風が吹いていたのが一番印象に残っています。

画像11

アートのことはまだよくわからないけれど、島はたしかにいいところでした。そこで、とりあえず採用試験を受けるだけ受けてみることにしました。

最初に公式ホームページの採用案内を見つけたのに、申し込みはわざわざマイナビとやらを経由しなければならないらしい。そんなシステムに少し憤慨しながらも、説明会に参加し、エントリーシートを書いて、面接のため再び島に向かいました。

まだまだ尖っているので、絶対にリクルートスーツは着たくありませんでした。せめてもの抵抗として、ジャケットとスラックスとシャツとネクタイを個別で用意。そもそも季節は春が過ぎ夏になっているので、直前までTシャツ短パンで過ごし、船の中で着替えて会場へ向かいます。

事前に「貴財団の現代資本主義社会への問題意識に共感しました」と大真面目に論ったエントリーシートを送付済。当然面接でも突っ込まれます。

面接官「現代資本主義社会への問題意識がおありのようですが、ご自身は具体的にどのように考えていらっしゃいますか?」

ヤマモト「分かりやすいことが価値のすべてとして評価されることに問題があると考えています」

(いま振り返ると見込みがありそうなこと言ってるやん。)

あとは、「だいたい君はずべこべいってるがちゃんと働けるのかね」みたいなことも言われた気がします(笑)

そんなことより、向かい合わせに座る面接官の背景は全面ガラス張り。美しい瀬戸内海を背景に、現代アート作品が風に揺らめいていました。美しいものと風景を前にすると、面接官のあらゆる質問は邪知に聞こえてしまいます。

画像3

ジョージ・リッキー「ペリスタイルⅤ」1963-95年
©Kimon Berlin

そんな具合で、媚び諂うことを一切せずに受けた採用試験なのですが、これがそのまま内定が出てしまいました。出てしまいました。
そもそもここに居場所はあるだろうか、というテンションで臨んでいた就活とやらの1社目。疑心暗鬼でめちゃめちゃ複雑な心境です。どうしたものか。

2014年秋 -納得

なにはともあれ、内定者研修とやらに参加しました。

活動を展開する直島、豊島、犬島の3つの島と運営する施設を巡る内容。
そこで、地理学とは関係のないはずの同期たちと地理学者や現象学の本の話題でひとしきり盛り上がりました。そこではじめて、この人たちとならなんとかやっていけるかも、なんとなく居場所があるかもしれないと思いました。

画像4

研修中の豊島で棚田から眺めた瀬戸内海

もうひとつ、ここでは地理学的な知見が必ずや必要になるはずだとも思いました。辺鄙な離島で常設のアートプロジェクトを展開するならば、地域とどう関わるかという問題は避けて通れません。

たとえば、研究室の先輩が発表した下記の論文は、観光をめぐる「まなざし」について、地域住民の立場によってそれぞれに意識と態度の違いがあることを明らかにしています。

やはりどう贔屓目に見ても、この田舎の島に「アート」の文脈は唐突です。地域の人々との関係を取り持つ人材が必要ないはずはありません。

はじめて直島を訪れた時、おそるおそる集落に歩みを進めたのにもかかわらず、慣れた素振りであしらわれたことを思い出します。どうしてこの島の人たちは、現代美術とやらに一定の理解を示し、寛容なのだろうかと疑問に思います。

のちに高校の恩師(じつは高校3年間ずっと美術の教諭が担任だった。国際云々コースなのに。)とこの話をすると、こんな推察を聞かせてくれました。

よくわからないけれど、直島にある作品は一見突飛に見えても、島の人たちの気質にうまくなじむ性質がちゃんと備わっているのかもしれんのお。

この仮説が正しいとすれば、土地と人間の関係の表現として直島のアート作品は成立している可能性もある

定性調査か定量調査か、という次元で議論している地理学のその先の可能性に思いを馳せました。

2014年冬 
-肥大化した卒論

どうやら直島で何かできることがありそう。そんな思いがしてきたので、文化を通じて場所との関係を探る目論見の卒論もはかどります。しかし調子に乗るあまりだいぶ暴走気味。ゼミでの発表は毎回全員をポカンとさせていました(これは卒業のタイミングまで改善しません。原因は論点の盛り込みすぎ。これはこのnoteを含めいまに至るまで改善しない悪い癖。)。

地理学の卒論の調査は現地調査を重視します。ヤマモトは「ヒロシマ」と関わる音楽実践を行う総勢約20名にインタビューを敢行しました。音楽という非言語的な行為にまつわる態度を言語的に聞きとってまとめます。しかしこれがまったくまとまりません。

なんだか難しげなことをずっとこねくり回していました。上記のツイートは卒論の提出2日前。まったく間に合っていません(笑)

あまりの惨状に、最後の方は見かねた同期が参考文献リストづくりを手伝ってくれていました(やさしい... みんなが就活中に「みずから進んで権力に従属しにいくのか」とか煽って申し訳なかった)。
それでも広げすぎた風呂敷を回収する道のりは途方もなく、もう間に合わない無理...卒業できなくてもいいや...と半ベソ状態。締め切り間際は、すでに提出済みの同期(みんな要領よくて優秀)や大学院の諸先輩方も寄ってたかってデータをプリントアウトして提出できるようにしてもらう始末。本人はもう呆然と突っ立っているのみ(笑)
なんとか提出しましたが、感情が崩壊したためその後しばらく号泣。大学近くの焼肉屋さん里乃屋で仲間内のお疲れ様会をやりましたが、またしても号泣(卒論提出をめぐっては、ここに書けない事件もまだたくさんある。まじで、大学が違ったら卒業できてない。ありがとう京都大学)。

提出後も、お世話になった方に送るためにしばらく原稿を直していました。やっぱりまったくもって間に合っていなかった。

2015年春-卒業

そんな数々の難局を乗り越えて、なんとか京都大学を卒業できることとあいなりました。

しかしながら、大学を卒業するとはどういうことか。この式典はなんの意味を持つのか。果たしてめでたいことなのか。
こじらせ京大生の疑問はとまりません。

画像5

まったく煮えきってないですね(笑)

さて、母校の卒業式では、一部の楽しい人たちがコスプレして出席します。毎年恒例なので、TogetterNAVERまとめのネタになったり、ニュースでも真面目なテンションでふざけた絵面が流されます

中途半端なコスプレをするのは癪。それよりもなによりもなんの変哲もないスーツで出席するのはいかがなものか。アートの道に進むわけだし、もっとコンセプトを詰めねばなるまい。

そうして考えたついたのが、いかにもそれっぽい一張羅で、タグをつけたまま参列する、題して"Tagged Self”。

画像6

だいたいGUと100均のタグ付きそれっぽい一張羅
(足元に荷物が散らかっているのは全部ヤマモトの私物で、最後のほうは研究室暮らしをしていたため。若かった。)

当時はFacebookがまだまだ盛んで、写真に写った人を積極的に「タグ付け」していました。タグ付けした/されたと一喜一憂する行為は、じつは「札をぶら下げられる」ことに、他ならないのでは。存在を「タグ」に単純化しているのではないか。そんな問題意識がありました。

当初の狙いでは、各所から撮られた写真がSNS上にアップされ、ヤマモトがタグ付けされたアルバムをもって記録に残す予定だったのですが...

実際は、

 超真面目な雰囲気の卒業生「あの、タグ付いてますよ。」
 ヤマモト「ありがとうございます(ニッコリ)」
 卒業生「えっ、、あっはい、、」

とか

 卒業生のご父兄「あの...タグが付いたままですよ...」
 ヤマモト「ありがとうございます(ニッコリ)」
 ご父兄「あ、やっぱりわざとですよね!すみません!」

みたいなやり取りを合計7回くらい。ツッコミ待ちのボケほどかなしいものはない。

結果、記録になりそうな写真も1枚のみ。式が終わって研究室に帰ってからやさしい同期が同情して撮ってくれました。1枚あってよかった。忘れてたけど、大学で友達が多いほうじゃなかったんだった。

というわけで、パフォーマンスにおけるドキュメンテーションの難しさを身をもって体感したわけでした。

画像10

アントニオ・ロペス・ガルシア『日と夜』
(マドリッド・アトーチャ駅前)

気を取り直して、卒業旅行はスペイン(とポルトガルとモロッコ)に行きました。

ひょんなことから美術系財団に就職することになってしまったわけで、さすがにこれはヤバいと危機感がありました(ちなみに大学では美学美術史の講義を1講座だけ受講しましたが(毎週教授の「興味深いお話」を聞いて期末にレポートを提出するスタイル)、体系的なことはほとんど何も学んでいません。)。そこで旅行を機にマドリッドとバルセロナで美術館を巡りました。

いろいろと回ったのですが、特に印象に残っているのはマドリッドのソフィア王妃芸術センターです。20世紀以降の近現代美術を中心に所蔵しており、パブロ・ピカソの「ゲルニカ」を展示していることでもその名を知られる巨大な美術館です。

画像7

直前に訪れたプラド美術館(歴代スペイン王家のコレクションを展示。ルーブル、エルミタージュ、メトロポリタンなどと並ぶ大美術館)と比べても、個人的にはソフィア王妃芸術センターの方がとても楽しかったのを覚えています。中世の絢爛な作品よりも、近現代美術の方が水に合っていると気づいたのもこの旅行の収穫でした。

散々歩いて溜まった疲れも忘れたように、キャッキャ言いながら展示を見て回っていると、とつぜん若い女性に英語で話しかけられました。学生さんでしょうか。

「調査の一環でお聞きしたいのですが、あなたはこの作品についてどう見ますか?」

どう見るか... まじかよ。ちょっと時間をくれ。

その作品は、板が多層的に直交するように組み立てられたものでした。たくさんの展示品のなかで流れで見ていたので、最初はスルーしていたのですが、コメントを求められるとは、どうしたものか。しかも英語やしな。

画像8

(写真をあまり撮らないことがカッコいいと思っていた時期だったので、
5年前のかすかな記憶を頼りに描いたスケッチでお伝えします。実物はもうちょっと複雑な構成をしていた気がするがこれ以上一切の情報がない。)

考える時間をもらっているうちに女子学生は別ところに行ってしまいました。そもそも、ぼくは本当にコメントを求められているのかすら不安になってきます。むやみに時間が経過してもどうしようもないので、「あの、さっきの作品なんですけど、」と切り出して、思ったことを話してみました。

ヤマモト「高さが違う板が2段になっていますよね。これは机だと見えました。低い方の段はダイニングテーブルのような高さで、板を挟んでだんらんの場になるでしょう。高い方は、バーカウンターのような高さで、もっと一時的な会話のための場となることでしょう。このように、私たちのライフスタイルは複層的なコミュニケーションスタイルの組み合わせで成り立っていることの表現だと思いました。」

女子学生「オッケー、ありがとう!」

反応それだけ?とも思ったけれど、がんばった、俺。結局なんの作品だったのかよくわからないし、女子学生のプロジェクト内容もいまいち聞いてないし、そもそも求められていたことにちゃんと応答できていたのかも謎です。冷静に考えたら、もしかすると無防備で不用意な対応だったかもしれません(スリ狙いの可能性とか)。

それでも、美術作品について自分なりに解釈をして、それを他人に表明したのはほとんど初めての経験でした。美術の専門教育を受けていない者にとっては、作品についてコメントをするなど畏れ多くて、著しくハードルが高いことなのです。曲がりなりにもこの場を乗り切れたらしいことは少なからず自信になりました。

仮にこれが日本だったとして、同じようなコメントができたかは自身がありません。英語人格のほうが機嫌がいいタイプなので、テキトーなことを出まかせで話せた部分はあると思います。

実際、同行のツレ(英語はできない)に「お前、さっきなんつったの?」と聞かれると、不思議なことに日本語だとまったくうまく説明できません。テンパってただけかもしれませんが。

いざ就職

波乱万丈の大学4回生の1年を終え、ついに京都の地を離れます。いざ、新天地は瀬戸内海の離島へ。

大学生活で得られた最も重要な知見は、非言語的な表現や情緒を言語的に置き換えることが容易に暴力的になることへの気づきです。いちいちの言語的コミュニケーションのなかで、いかに個々人の主体性を踏みにじらないことばで情緒や表現を形容できるかという問題とは、これからもずっと付き合っていくことになるでしょう。

そんな立場からアートに関わることで、まったくの門外漢なりに何か役割がある気がしてきました。

といったところで自己紹介の大学4回生編、いったんここまで。次回は、美術系の財団に就職したはずがさらに経験のないコメづくりの担当になる話です。

果たして拗らせ新卒くんは瀬戸内海の荒波を乗りこなすことができるのでしょうか?

--
[2024年1月追記]
この文章の続きは、記録集「テンセン vol.3」に収録した「私の履歴書:地理学、米づくり、現代美術」に書きました。美術系の財団に就職したあと、地元広島にもどってアートの分野で起業し、アートスペースの運営とマネジメント事業を行うに至るまでの内容を加筆したものです。興味を持っていただいた方はぜひチェックしてみてください。


いまのおしごとの宣伝
●広島市の京橋川を望む集合住宅の一室で「タメンタイギャラリー鶴見町ラボ」というアートスペースを運営しています。
●アートでなにか企画したいときはお気軽にご相談ください!
●よくわからないけどヤマモトに聞いたら上手くいきそうな気がするときはDMでもください!

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?