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65 「モチベーションを保とうとしている時点で偉いんじゃん」という気づき。

またモチベーションのことを考えたいと思います。モチベーション問題に対して意識を持っていると、自然と同じ話題を取り扱った本や記事に目が行きやすくなる。そういう「自分が見たいものを見ている現象」のせいかもしれないけれど、モチベーション問題は今結構広い問題なんじゃないかと思うし、なにより自分の問題でもあるからずっとずっと考えて答えを出そうともがいて来た。

昨日、noteを久しぶりに書いて、深夜だったんだけど、その後さすがに眠ろうと思って目をつぶってもまだ考えごとが頭を回っていて、そういう時ってだいたい寝れない。しかたなくというか脳が回るに任せて考えごとをしていたら、ひとつ(いや二つ)すごいことに気づいてしまった。

そもそも僕が抱えているモチベーション問題というのは、最低限生きるための死活問題とか飢えや雨風凌ぐ生存本能とかとは違って、どちらかというと「生産的な人生を送りたい」というような前向きなモチベーションが欠けてしまっていることへの問題意識だ。夢とか希望を持つ気持ちって言った方がわかりやすいのかもしれない。

それで何に気づいたかというと、そもそもそのモチベーションを持とうとしていることは言わば贅沢というか、少なくとも自己嫌悪の対象になるようなものではないということ。むしろ「モチベーションを高めようとしている自分偉い!」と褒めてやっても良いのかもしれない。

僕はずっと作品制作をして来たので、モチベーションがないことを恥ずかしいことのように思っていたし、そんな自分を嫌悪する気持ちがあった。けど、そうじゃないじゃん。平均値に自分がいるのなら、それ以上を望むことってそれ自体が結構偉いことだよね、と。これまでの時代にひっぱられてしまっていて、夢や希望がないことを「問題」として捉えようとしてしまいがちだけど、問題ではない。あればまあいいよね、っていう類のもの。

自分の話と社会全体の話とごっちゃにして書いてしまったけど、とにかく、もうモチベーション問題は僕の中でひとつ解決したように思える。問題ではなかったということ。段階が変わったんだ。時代は変わったんだ!!

寝ながら考えていたことにお金の例があったのでしつこく例え話をすると、お金がなく貧乏だった時代には、「なにくそ、やってやる!」っていうハングリーな気持ちがあり、それがモチベーションになって(自然と夢や希望に置き換えられ)、やがてお金を稼いで普通の生活ができるようになる。でも、もしそこから更に稼ごうと思ったらそれは贅沢というか余剰なものだ。

でも、今すでに普通に幸せな人や、生まれた時点で結構豊かな今の世代の人にとっては、スタート地点からもう贅沢や余剰を求めるしか登りようのない立ち位置に来てしまっている。だから繰り返し言うと夢や希望がないことは、今の時代にはもう問題ではない。お腹いっぱいの人に、更に食え、食いたがらないのはおかしいと言っているようなものだ。

それであと一つ、それでもモチベーションを保ちたいという自分の気持ちに答えを出すべく考えたことは、では、普通の段階にいる人が更に上を目指すようモチベーションを保つためには何が必要かということ。これはもう簡単だった。結局月並みな答えになってしまうんだけど、周りにいる人や自分が触れるものをなるべく高次元なものに変えること。

簡単な結論だけれど、ずっと腑に落ちなかったというか、これが出来ずにこじらせてしまっていた原因は、僕の場合「一人でモチベーションを保とうとしていたこと」だった。一人でモチベーションを保つというのはなかなかにきつい。例えば、明日朝起きたら世界から自分以外の人間が消えて、世界にたった一人になったとして、そこで高度なモチベーションを持とうと思うかというと、おそらく持たないんじゃないか。まず死活問題があってそれを解決したとしても、一人っきりで「さあ、すごい作品を作ってやるぞ!」とは思わない気がする。触発されることもないしそんなことをする必要もないから(壁に落書きぐらいは暇でするかもしれないけど)。

ということで、僕は腑に落ちないままセオリーや定石を実行することができない人間なので、ずっとそのからくりを考えていたけど、なぜそれが有効なのか、自分が何にまごついていたのか、昨日やっとその悩みに終止符を打てた(気がする)。

モチベーションの火が欲しいなら、一人で薪を見ているだけじゃダメだということ。火が不要と思うなら別に求めなくても良いし、火を求めようとすること自体が偉いことだから自分を責める必要もない。

ということで、今日はこれから尊敬する先輩と忘年会をしてきます。きっと火がもらえるはず。

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