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36 日々は山登り

母が韓国に住んでいる。母に会うのは年に1回か2回くらいだ。母が日本に来たり、こちらが妹と一緒に韓国を訪ねたり、そうホイホイ行き来できる距離でもないので自然と会う回数も少なくなる。

前々回会った時に母が「このペースだと死ぬまでにもう何回も会えないね」と寂しいことを言ったので、今回、予定をしてひとり韓国に行ってきた。3泊4日の、あっという間の旅だった。

韓国は今寒い。街を歩く人はみんなダウンを着ている。お年寄りも、大人も、子どもも、だいたい黒色の長い丈のダウンを着て、前を首元までしっかり閉めて歩いている。さらにフードをかぶってカオナシみたいになっている人もいる。

韓国の人は健康に対する意識が高いように思える。伊達の薄着をする感覚はないようだし、体に良いものをよく食べるし、サウナで汗を流し、山登りなどして運動も怠らない。

実際、僕も2日目に母と山登りをした。そういえば前回来た時にも登った。母の家の近くにあるケヤン山。住宅地の、道一本挟んだ隣に広場があって、そこから山の登り口に入れる。

登り始めてすぐ視界が開け、遠く左の方に頂上が見えた。自分が歩いてる道の行方を目で追うとすぐに先が切れて、その裏から緑やら茶色の山のなだらかな凸凹が頂上まで続いている。

頂上は果てしなく遠くにあるように見える。今自分が歩いている道がそもそもちゃんと頂上に繋がっているのか不安に思えるほど。

頂上までの道はほとんど一本道で、人が二人も並んで歩けばいっぱいというくらいの細さ。石がゴロゴロと転がっていたり、太い木の根っこが肋骨みたいに地面から浮き出ていたりする。勾配が急になると厚い木の階段が現れ、緩やかな所では藁が段々に敷かれている。上を見上げれば空は見えるが、両脇を木々に囲まれているので、天井が抜けた森道という感じ。ひたすらそんな道を、上がったり下がったりを繰り返しながら歩く。

頂上に近づくにつれ段々と勾配が急になってくる。段差の高い木の階段。疲労も溜まってきていて、一段一段上がるのに時間がかかる。体が前屈みになり、気づくと目の前の段差に意識が集中している。視界の中には段差しかない。それが一段登るごとにゆっくり下へスクロールされる。頂上のことなど、その時にはもう忘れてしまっている。

一段登ることが、なんだか喜ばしい。一回一回膝にかかる体重も、その結果上がった一段分の高さも、心地よい達成感のリズムとなって打ち寄せる。僕は確かに登っているんだ。

不思議なことに、頂上に着いた時のことを僕はあまり覚えていない。普通、頂上到達といえばそれこそが山登りの絶頂、佳境。だけど、頂上での記憶は、2匹の猫が戯れていて可愛かったことと、山頂でWi-Fiが拾えたことにビックリしたことくらい。実際3分もそこにいなかったんじゃないかと思う。一息ついたらもうすぐ下山していたような感覚だ。

下山しながら、僕は先ほどの一段一段のことを考えていた。山登りは、頂上で達成感を感じることがすべてではない。登っている最中にも感じるものがあるということ。目標と日々。僕はそこに自分の活動を重ねていた。目標に向かって進むことの充実感は、日々の一段一段にもある。


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