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金プールは加盟国の金準備を減少させただけだった ゴールド119

1961年、8か国 -アメリカ、イギリス、西ドイツ、イタリア、フランス、オランダ、ベルギー、スイス- の中央銀行は金プールを作った。金プールの目的は、投機家の動きを抑え、金の市中価格を1オンス35ドルという公定価格の水準に近いところに維持することだった。

金プール

金プールは、各国が一定の割合で手持ちの金をプールしたうえで、イングランド銀行を代理人として金を買いたいという者に金を売り、金の市中価格が上がるのを抑えつけようとした。

しかし、ド・ゴール将軍が金価格の上昇を支持し、1967年にフランスを金プールから脱退させたことで金プールは投機家との戦いに勝つことができなくなった。

1968年3月、ついに金プール加盟国は投機家との戦いを諦め、それ以降いかなる金市場にも金を供給しないし、将来そうした場で金を購入するつもりはないと発表した。


金プールがもたらしたもの

結局、金プール加盟国は投機家の絶え間ない需要を満たし、自身の金準備を激減させただけだった。

金準備が激減したことにより各国の主要通貨に十分な金の裏付けがなくなったように思われた。そうすると、各国にできることは限られている。それは、金の公式価格を大幅に引き上げることだけだった。


平価切下げ

ド・ゴール将軍は金プール戦略をドル切り下げまでの一時しのぎに過ぎないとドルを罵倒していた。

1967年11月 -1968年3月に金プールが投機家との戦いを諦めた- 、イギリスは戦後二度目のポンドの切り下げを実施していた。

金プールが投機家との戦いを諦めてすぐに、連邦準備制度理事会議長はドル平価を切り下げることのなるだろうと表明した。この演説により、金の価格は急騰し、そして1969年春までに金の価格は1オンス43ドルを上回ることとなった。


合衆国は見返りを求められた

金プールに加盟していたヨーロッパ諸国は少なくともヴェトナム戦争が続いている間はドルを金と交換することを控えるという合意をしたとのうわさも流れた。

もちろん、ヨーロッパ諸国がドル平価を保とうとするのは無償ではなかった。見返りとして、合衆国は予算の統制と高金利という時代遅れの薬を服用せざるを得なかった。

1969年、ニクソン大統領は政権に就いた最初の年に10%の追加税を合衆国国民に課した。連邦準備制度理事会は1967年末に4%だった公定歩合を、1969年半ばに6%へと引き上げた。

その結果、1970年には景気は緩やかに後退した。だが、それはインフレの熱を冷ますのにはほとんど役には立たなかった。


ゴールド 金と人間の文明史 ピーター・バーンスタイン

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