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考察 映画『あのこと』オードレイ・ディバン監督


2021年、第78回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を獲得した本作。勇気ある女性の強さに、深く胸を打たれる作品だ。


“じぶんごと”としての映像体験

正方形に近い画面構図で、限りなく狭い視野で撮影された本作。ストーリーが進行していく中で、是が非でも、観客の心身はアンヌのそれと一つになっていく。

そして我々がアンヌと位相を共にした時、待っていたのは地獄の苦痛。中絶の施術である。

一度目の施術は絶望にも失敗に終わり、この施術で走った激痛を、我々はアンヌと共有した。だから我々は二度目の施術に必要な覚悟とリスクを身をもって知っている。
一度目の施術のあとに言語化された「作家になる」というアンヌの信念。その信念を真っ直ぐな眼差しで捉えるアンヌの、その肩を抱え、我々も歯を食いしばり、顔を歪め、泣きながら血みどろの中絶過程を前進する。

辿り着いた病院で、朦朧とした意識のなか白く濁る視界。わずかに稼働する聴覚にうっすらと知らせが届く。
カルテは「中絶」ではなく「流産」を示すと。

ここで我々が経験した心からの安堵は、オードレイ・ディバン監督の技巧、すなわち一体化された我々とアンヌに対して、同時に試練を超克させる、凄まじい技の結晶である。


静かな表現

撮影前に、オードレイ・ディバン監督と、主人公アンヌを演じたアナマリア・バルトロメイは、幾多の映画を共に鑑賞し、本作を造る上での「共通言語」獲得を図ったという。

その共通言語は、淡々と静かにアンヌの意志を顕現させる、声を荒げない知的でクールな表現スタイルに昇華されていたと感じる。私はそこに趣を受け取った。

ラストシーンを思い返そう。

法を犯し、一つの命を捨て、アンヌが覚悟のもとに対峙した最終試験。教授の祈りと共に試験は始まり、画面はアンヌが走らせる筆の音だけを残して暗転する。暗い視野の中、ただひたすらにアンヌが織りなす筆の音だけが響き続ける。あのか細い躍動に析出されるのはアンヌの信念、強き女性の、魂の鼓動だ。


中絶合法化へ

現実の話、1971年、フランスでは343人の勇気ある女性によって、妊娠中絶法成立への道を拓く、マニフェストが請願された。起草したのはシモーヌ・ド・ボーヴォワールであり、作中でも名が挙がった哲学者サルトルの伴侶だ。

『フランスでは年間100万人の女性が中絶手術を受けている。中絶手術は医療体制の下で行われる場合はさほど困難を伴わないが、実際には、非合法行為であるという理由から非常に危険な状況で行われている。この100万人の女性たちについては誰もが沈黙を守っている。私はここに宣言する、私もその一人であり、中絶手術を受けたと。そして、我々は要求する、避妊手段および中絶手術の自由化を』

その4年後、フランスでは中絶が合法化される。

一つのイデオロギーをもとに頑健なシステムを破壊し、環境に適応した新たな仕組みを再構築させる、そんな勇気ある力強いエネルギーの流れに、そしてその流れの担い手たちに、感動を禁じ得ない。

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