黙想②「安息に入る」

マルコの福音書を通読した。この書は、いくつか大きなテーマが流れながら、話が進んでいく。「救い主」「王」「種」「富」「食卓」そして、「安息」。まだまだ色々あるが、僕にとって、これらのテーマが浮いて見えた。本記事は「安息」について書いていく。

なぜ、「安息」について書くのかといえば、今まさに僕自身が神様から安息を学ぶように命じられているからだ。

お金と病

僕は、去年の年末に、コロナの後遺症で倒れていた。インフルエンザのような症状が続き、何ヶ月も仕事へ行けなかった。結局、仕事を辞め、療養生活に入った。

僕は、まずお金の問題にぶち当たった。今の生活は、当時の仕事をしていれば少し貯金ができる程度のギリギリの設定だった。しかし、仕事を辞めて、傷病手当金で生活するようになり、職場から受けていた、住宅手当、ガソリン手当、健康保険などの折半、車の保険など、多くの手当がなくなり、かつ、給料の1/3の傷病手当金となった。

傷病手当金も、もらえるまで約2ヶ月以上かかった。実際、3ヶ月目まで、ほぼノー収益だったので、家賃や、通信料や、色んな支払いが苦しくなっていった。

どこからお金がもらえるようなアテもない。調べてみても、給付金もそんな大したものではない。絶望していた。

結論から言いますと、毎回、必要が迫られる週に入ってくると、必要な分だけ、なぜか不思議とお金がもらえた。

息をしているだけでマイナス勘定の生活をしているのに、食事も毎日毎食食べられている。

祈る中で、神様がこのように語られた。「わたしの安息の中に入りなさい。あなたを休ませる。」

僕は、休むための時間、お金、食事、すべての必要が与えられた状態になり、ゆっくり心配することなく、療養生活に入りました。

マルコの福音書に、このような記述があります。

"これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
マルコの福音書 2章17節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

"そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
ですから、人の子は安息日にも主です。」"
マルコの福音書 2章27~28節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

マルコの福音書の序盤にこの話が出てきた。つまり、この話はこの書簡の大きなテーマであると推測する。

罪人が招かれ、神の国に入る約束が与えられているその姿は、奴隷だったイスラエルが、安息の地であるカナンに入る約束が与えられたあの姿と重なる。

そして、同時に、病人が癒やされていく姿も描かれている。実はこれも「安息」と関係が深い。というか、これこそ「安息」そのものではないかと思う。

病に苦しむ人は休む間もない。僕も双極性障害や、今回の慢性疲労症候群に悩まされているが、健康な人には休日が安息の時となるが、病人にとっては休日も苦しみは終わらない。

イエス様は、病人を癒やされた。それは、彼らを安息の中に入れるためだ。

僕は慢性疲労症候群は治っていないし、毎日が体の痛みとの闘い。精神的にもつらいことがある。

しかし、ひとつ安息が与えられている。それは、神の前に行くということだ。神に近づく、と言ってもいい。

僕は、お金がなくて苦しい時、体がいたんで苦しい時、いつも神に叫んで祈る。すると、必ず解決した。今振り返っても、結果的に解決しなかった祈りは一つもない。

それなのに、僕は、祈りよりも、自分で考えることをよく優先する。どのようなビジネスをしようか。病気の原因と治療法はなんなのか。いつも、お金の調達と、病院の予約のことで頭がいっぱいだった。

そんな時に、神様はひとつのみことばを与えてくださった。

"兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。"
テモテへの手紙 第二 2章4節

聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

そして、こう小さな声で語られた。
「わたしはあなたの日常を満たす。ただ、神の国とその義を求めなさい」

僕が、祈りを忘れて、ビジネスや病院のことで頭いっぱいになるたびに、このみことばを何度も思い起こさせられる。

食事と睡眠

マルコの福音書の全体で描写されていることがある。それは、イエスは、近くにいるものにハッキリと見せ、遠くにいるものにはぼんやり語られる。イエスの足元にいたものたちを「家族」と呼び、弟子とした。遠くでイエスを狂ったものとして家に戻そうとした肉親たちのことを「家族ではない」と言った。

イエスにとって、目の前にいる者にこそ、その心を教え、知恵を語り、ご自身の本当の姿を見せられた。

自分のビジネスに必死な祭司たちや、建前を気にする肉親たちにではなく、お金がなく明日の食事もないものにパンと魚をたらふく食べさせ、病で苦しむ人たちを癒した。

イエスは、近づくものの病を癒し、彼らに食事をさせる。これをひたすら繰り返した。マルコ5章に出てくるタリタ、クミで有名な少女も、生き返らせた後、食事を命じている。

僕は慢性疲労症候群になり、仕事を辞め、寝たきりになった。何もできなくて、ただ、食べて寝るを繰り返している。

頭の中は、将来のことでいっぱいになっていた。

しかし、神は僕に繰り返しこう語る。「休みなさい。日常のことでかかりあうな」

神に近づく。その時、僕らは安息の中に入る。それはパンによって満たされることもあれば、いやしによって解放されることもある。

しかし、一番の安息は、神のことばに浸ること。マリアが足元で、ことばに聴き入っていた。神のことばに浸ることによって、最も深い安息を得る。

神のことばは、霊的なパンであり、霊的な乳であり、霊的な睡眠でもある。

魂が安らぐ時、心は叫ぶのをやめる。大嵐を前にしても、安心して寝ることができる。大嵐の中でも揺るがない心に、神の約束は実現する。

労働と休み

深い安息は神の足元にある。マリアとマルタは対照的だ。マリアはキリストの足元で、ただキリストだけを見て、キリストのことばに聴き入っていた。彼女は、これからキリストの身に起ころうとしていることを悟り、その備えをした。なぜ彼女がそのことを理解したのかといえば、キリストのことばの中に浸っていたからだ。

それに対してマルタは、多くのことを心配していた。あれもしなきゃ、これもしなきゃ。やることリストがあまりにも多かった。

キリストは別の箇所でこのように言った。

"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」"
マタイの福音書 11章28~30節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

くびきのイメージはこんな感じだ。

出典:立琴様 @175oishii

イエス様と隣り合わせで二人三脚になる。つまり、イエス様のペースで歩くことになる。

マリアはマルタのように、あれもこれもやろうとはしなかった。ただひとつ、キリストの近くで、キリストのことばの中で安らぐということ。多くの労働をする代わりに、キリストが言われたことだけを忠実に従っていた。

「労働」は、ときに依存的になる。僕も労働依存になりやすく、やり始めたら、朝から寝る前まで、体が限界に達するまで、あらゆるタスクをこなそうとする。

タスクをこなすこと自体が病みつきになったり、色んなことをやりたいという一種の欲があったりと、とにかくやめられない。

労働が続き、睡眠不足になり、疲れが溜まってくると、とにかくイライラしてくる。心に余裕がなくなり、怒りと不安で、いつも心が引き裂かれる。正直、マルタの気持ちがとてもわかる。

労働が悪いというわけではない。お酒もそうだが、ほどよく飲むのが楽しい。飲み過ぎると吐く。

酔ってはならない、安息日を守らなければならない、というのは、まさに安やぎを保つためなのかもしれない。

イエス様のペースというのが存在する。これは律法で教えていることなのかもしれない。安息日は人のためにあり、人が安らぐためのもの。

殺してはいけない、姦淫してはいけない、盗んではいけない、父母を敬わなければいけない、欲に支配されてはならない。これらすべても、人が安らかであるためなのかもしれない。

そして、イスラエルの神だけを拝み、偶像を拝んではならない、この戒めこそ、安らぎを得るための唯一の方法なのかもしれない。

マルタは労働に取り憑かれていた。取り憑かれていたというよりも、多くのことをしようとしていた。しかし、イエス様が望んでいたことは、ひとつだけだった。

それは、神のことばに耳を傾けることだ。

僕はいつもこう思う。「家事は大切。仕事も大切。みんなマリアみたいになったら、家庭が崩壊するよ!だから、労働するの!」

僕はこうやって正当化していた。しかし、これら労働を第一優先にして、神に近づくことを蔑ろにしていた自分を認めることはなかった。

労働は必要であり、食卓の準備も必要であり、ビジネスも、家事も必要。しかし、それらのすべてをやる前に、まず、神のことばに浸ること。これを第一にしなければいけない。

これを第一とするときに、神は必要のすべてを満たしてくれる。

"まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。"
マタイの福音書 6章33~34節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

多くのことをしたくなる欲求は、裏を返せば、自分でなんとかしなければいけない、という心を意味する。この思いのさらに深いところには「神に頼れない」という不信仰があるのかもしれない。

直接的に不信仰から来るものでなくとも、「神が必ず助けてくださる」と信じて、安らがない時点で、少なくとも信仰(信頼)は存在しないのかもしれない。

僕の欠けたところといえば、自分の将来を神に委ねなかったところ。神が必ず導いてくださると信じて、神が示してくれたわずかな仕事に専念することを拒んだこと。

色々やるべきことはある。やろうと思えばやれることはたくさんある。

でも、何よりも優先してやるべきことは、神のことばに聴き入ること。そこから、必要な労働が見えてくる。そして、その労働は軽く、安らぎの中で一日を終えることができる。

この世にあっては患難がある。しかし、キリストは、それらすべてを押さえ込み、僕たちが安心して、安息の地である、神の国まで導いてくださる。

そこに至るまでの労働も苦役ではなく、安らかなものとなる。

まず第一に、神に近づき、神の足元で神のことばに聴き入りたい。

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