黙想①「不幸を喜ぶ」

ムカつく人の不幸を喜ぶことを日常にしてしまうことがある。自分を否定した(と思えた)人、敵意を持ってくる(と思えた)人、意見が合わない人。そういう人が悪く言われてたり、罰せられてたり、不幸に陥っていたときに「ざあまみろ」と内心では思う。

だけど、それは心の中だけの話。表向きには「大丈夫?」「何かあったら相談してね」「祈ってるからね」と、まるで良い人を演じることさえある。

口と心が分かれている。これは、多分、一番重たい罪なんじゃないかと思う。

実は、そんな思いが心の奥底に隠れていても気づかないことの方が多い。どちらかというと、口に出てきた言葉が自分の本心だと思っている。

でも、本当は二枚舌。心と口が分かれている。

僕の恋人は露骨に他人のことを「嫌い」という。心に湧いたことを、口に出さないことが苦手だ。そして、顔にも態度にも出る。そして、本人にハッキリと「嫌い」と言ってしまう。

他人をあからさまに傷つける発言を恋人がするので、やはり注意をする。「わざわざ、人を傷つけることを言っちゃダメだよ」。

でも、心のどこかでこんなことも思う。「彼女は自分の心をよくわかっている。僕は自分の心によく嘘をつく。どっちが真実な心を持っていると言えるのか」

人間関係において、何が大切なのか考えることがある。マナーを守り、相手に失礼にならないように「言葉に気をつける」。これは大切だと思う。

でも、本心は悪い思いがあるのに「あなたは素晴らしいよ!僕も尊敬してる」という嘘をつく。これって本当に人間関係をよくすることなんだろうか。

だからと言って、本心は悪い思いがあって、言葉にしてわざわざ「お前きもいんだよ!それに頭悪そう!」と悪口を言うことも、決して人間関係をよくするとは思えない。多分、終わらない争いが勃発する。

じゃあ、どうすればいいのか?正直であるべき?嘘をつくべき?

僕は悩んだ末に、嘘もつかないし、正直にも言わないことにした。つまり、悪く思ってるなら、褒めもしないし、悪くも言わない。ノーコメントか、適当なコメント言ってその場を濁す。

でも、これも人間関係をよくするとは思えなかった。

一つ思ったことがある。それは、そもそも、この心が変わることはないのだろうか。

他人の不幸を喜び、見下し、他人を踏み台にして、自分を高く上げようとする、この汚い心。

自分を愛し、自分の名誉を守り、自分がきよらかでいたい、褒められたい、優位に立ちたい、正しい人と思われたい。そういう欲に塗れた自分の心が変わらないだろうか。

イエスキリストのように、本当に、心の底から、神を愛し、隣人を愛する、そんな心にならないのだろうか。

批判されたときに、「こいつを、どうやって追い込んでやろうか」と思ったり、隠していたことを明るみに出されて責められたときに、「こいつも、同じ目に合わせてやる。いや、二倍で返してやる」と思ったりする、この心を捨てることはできないのだろうか。

そもそも、心が本当の意味できよかったなら、口からもきよい言葉を出すことができるんじゃないか。

もし本当に心がきよければ、「あなたのために祈ります」「大丈夫?」そういう言葉を言っても、嘘にならない。

口と心の関係を上手く調整しようとした。でも、何やっても結局「偽善」になってしまう。

こんなイメージが頭をよぎった。もし僕が天然水を売る仕事をするとする。だけど、その仕入れている水は、工場の排水が混ざった汚れた水だ。人が飲めば、必ず体は悪くなっていくような商品だ。

そこで、僕は考える。この水をどうしたら売れるだろうか。まずパッケージをよく見せようと努める。「富士山の天然水」「栄養たっぷり」。間違ってはいない、しかし、排水であることを隠している。真実ではない。

そこで、僕は考える。嘘をつくのはよくない。じゃあ、正直に言おう!「この商品は、排水も含まれています」。とても正直だ。しかし、絶対に売れない。

そこで、僕は考える。もう余計なことは書かない。そして、「水」とだけ書いて売る。しかし、体に悪いものを売ってることは変わりない。

何が悪いのか悩む僕は、そもそもを考えてみる。「体に良い本物の水を仕入れよう」。

言葉の出どころは心。心が汚れていれば、どんな言葉を発したところで、それを聞く人は必ず汚されていく。

言い方の問題じゃない。トーンや、言い回し、敬語、タイミングや、枕詞なんかの問題じゃない。

その心、その動機はなんなのか。その一点。この一点が人間関係を良くするか悪くするかの唯一の軸と言っても良いのではないだろうか。

「不幸を喜ぶ」。そんな心があることをまず認めたい。また、今までたくさんの人に、汚い水を売ってきたことを悔い改めたい。そして、この心を全く新しくつくり変えてもらえるように、イエス様に求めたい。

「人にはできない。しかし、神にはできる」このことばを握る。そして、「神は求めるものに、その罪を赦し、またきよめてくださる」このことばを握る。

人間関係を良くするためにまずなにをするのか。話し方や考え方を変える、その前に、まず、神の前に近づくこと。

神に近づく者に、神は良いものを与えてくださる。きよい心、これは十字架から流れてくる血潮によって実現する。十字架に近づき、この最高のぶどう酒を飲むなら、汚れた心は、白くなる。

イエス様、どうかあなたの心をください。敵のために自分の全てを捨てて、また敵を赦すことのできる真の愛を、私の心にもください。あなたの血潮は、私たちに愛することを教えてくれます。

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