雑記 抽象の扉

僕は抽象的に物事を考える癖がある。

例えば、犬が捨てられているのを見つけたとき、僕は目の前の可愛い犬の事はひとまず置いておいて、「犬を捨てることの善悪・捨て犬を無責任に愛でることの善悪・捨て犬を拾うことの善悪」について考えを及ぼす。

これのあまり良くない面は、結果を生まないことだろう。はたして、ここで僕が「犬を捨てる人は悪人だ」と結論をしても、犬は捨てられているし、僕は犬を救えない。僕の考えは目の前の犬のエサにもなりゃしない。

犬は腹を空かせ、僕は犬を見捨てる罪悪感を感じる。どうやら幸せは生まれそうにない。

僕の抽象的一人会議は冒頭述べたように僕の癖だが、かなりの確率で無価値に終わる。抽象的な考えにいくら時間を投資しても、目の前の問題に直接は役立たない。「役に立ちました!」と言えるような事例も持ち合わせていない。

良い所と言えば、役に立たないからこそ、私が自由に考えを巡らせられるということだろうか。もしも私が捨て犬を幸せにする最善の方法に考えを巡らせていたとしたら、捨て犬を助ける責任と向き合わなければならなかったかもしれないし、「捨て犬を助けられるのに助けなかった」というより重い罪悪感を背負うことになったかもしれない。

世界に影響を与えない範囲で物事を考えている自覚があるから、私の思考の遊びとしてのびのび続けていられるような気がする。

それでも最近は具体的に考える事にも挑戦していて、何かを説明するときには具体例を頭の中から引っ張り出そうと挑戦している。捨て犬の話がまさにそれだ。わざわざ可哀想な設定にされた犬には気のどくに感じる。申し訳ない。

あとは、目の前のことをよく観察することだろうか。目で見えているパソコンの画面や、聞こえてくる暖房機の稼働音や、タイピングするキーボードの指ざわりなんかを意識して、現実の世界にいることを意識している。

抽象的なことと具体的なことはバランスよく考える必要があるだろうが、僕は抽象の世界に引きこもりがちだなあ、というお話でした。では。

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