『容疑者Xの献身』感想🎞

『沈黙のパレード』の地上波初放送があると聞き久々に。

上映が2008年と16年も前なので仕方ないかもしれないが、内海がコーヒー淹れさせられたりガサ入れの準備をさせられたり、部下ではなく「内海が女だから」という理由でこき使われている描写が多く不快だ。
また、ホステスに関しての偏見も同様である。
とはいえ16年前の私は今ほど問題意識があった訳でも敏感だった訳でもなく、「そういうものだ」とスルーしてしまっていた事も事実だが・・・。

さて、本編が面白かったか面白く無かったかで言うと、普通。
石神の一連の行動を湯川は「石神が花岡靖子を愛した結果だ(石神が人を愛する事を知らなかったなら、罪を犯す事も無かったかもしれない)」と言及していたが、私は石神が花岡靖子を愛していたとは到底思えない。
なぜなら石神は終始自分の気持ちを押し付け、相手の本当の姿を見ようともしていないからだ。

花岡靖子とその娘である美里が石神の隣へ引っ越してきた日、自殺しようとしていた石神にとって花岡靖子と花岡美里は生きる希望となってしまった。
そしてその時から石神の中で花岡靖子と花岡美里の美化・理想化が始まった。

石神は「花岡靖子とその娘である美里は"幸せ"であるべきだ」という理想を持つようになった上、その"幸せ"がどうであるかについても、本人達の"幸せ"の定義や意志はそっちのけに「工藤邦明と結ばれる事は二人の幸せの確率を高める」等と宣う
詰まる所、石神の行った事とは「花岡靖子とその娘を自分の考え得る最も理想的な形へと思い通りにする事」であり、それは愛ではない。

このようなツイートがあったが。

正に的確な分析。

その理想の解も見事、終盤の花岡靖子によって崩されていく訳だが、石神は最後まで花岡靖子とその娘である美里がどの様な人物か理解しようと努めなかった事がよく分かる。
二人は石神やもう一人の尊い犠牲を払ってまで"幸せ"に生きようとする人間であったか?

湯川は物理学者と数学者との違いを、前者は観察し仮説を立て実験によって実証していくが、後者は全て頭の中でシミュレーションしていくと指摘した。
石神の二人に対する思い込みと理想への誘導は、ある種、数学者らしい側面とも言えるが、全ての数学者がそうでないように、石神の犯した罪を「数学者らしい行動」だと片付けてはならない。

石神は唯ひたすらに自分勝手に、自らが追い求めた美しい解へと献身した。
この社会で生きる意志を失くし過ぎてしまったが故に、秩序を守る意志すらも手放す、欲望を全うせし生き物となったのだ。

石神が誰かを心底愛したというならば、それは自分自身だろう。
天才と持て囃された過去や理想の自分を捨て切れず、得意な数学に縋り美しい解を遺そうとした。

自分とも他人とも向き合う事の出来なかった男の自己満足の為に、犠牲となった全てが無念でならない。

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