見出し画像

変化に導かれた今を堪能する。–28歳のバースデーリフレクション–

そうか、私がしたかったのは堪能と共存なんだ。
そう気づいてから、毎日のようにこの2つの言葉を頭に浮かべています。

「私は今、堪能できているだろうか?」
「私は今、共存できているだろうか?」

言葉にすると胡散臭いほど詩的ですが、これが今の私のリアルな日常。シンプルだけどいろんな感情を引き出してくれた問いだったなと、怒涛の変化の連続だった日々を思い返します。

1年の自分の変化を、自分の言葉で残しておく。そんな目的で書いているのがこの「バースデーリフレクション」です。
普段は文章を書くことに対してなかなか腰が重いのですが、いよいよ近年は誕生日が近づいてくると「今年も残さないとな」という気持ちが湧くようになりました。(それでも腰が重いことには変わりないのですが;)

昨年の記事を見返すと、確かにこの時はちょうどそれまで自分の中で渦を巻いていた煩悩が徐々に柔らかく、穏やかになっていった年だったなと。こうやって今までのリフレクションを見返して、誰も追いかけず急かされない、ゆっくりだけど確かな自分の歩みを実感できるのも、この機会の価値だなと実感しています。

さて、この1年も振り返っていきましょう。

この1年でできたこと

この1年は特に、後から振り返ってみても「あの時は転機だった」と言えるほど色々なことが変わりました。家族関係で節目を迎え、住む場所を選び、仕事を変え、初めて1人で海外へ行き…そんな変化を全てひっくるめて、「リミットを外して自己決定する」方法を覚えたような気がします。

もちろん、今までも自己決定の機会は幾度となくありました。ただ、私にとってそれを決定する指針は何より「正しさ」でした。なぜなら、それが一番安心で安全だから。でもそれとは裏腹に、正しさに反発したがっている自分がいることも知っていました。気づいているけど見ないふり。正確に言えば、「ちょっと待ってね、今じゃない」と言い続け、ずっと後回しにしているような感覚です。

それが今や、ずっと見ないふりをしていた自分自身と対話をするのが日常に。まるで言葉通りのセルフパートナーがいるかのような日々になりました。本当はAの方が正しいんだろうけど、私はAとBの間を求めてるんだな、とか、今自分は猛烈にCというの選択肢を作りたがっているんだな、とか。そして、その心の声を受けとめた時にはいつも、自分愛で満ち足りた気持ちになります。

最近、NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」というドキュメンタリーを視聴しました。とても胸に残りました。自分が自分であるために、自分である間に自己決定をするというのは、何よりも尊厳に繋がっているのだなと。世間からすれば必ずしも賛成されることじゃなくても、自分自身を尊重する手段であれば、その人の正解にはなり得る。実際、認知症として晩年を過ごした祖母を見ながら感じていたことではあるのですが、時の経過で薄れがちな教訓を、改めて思い出すような内容でした。

環境の変化があったから自己決定できたのか、自己決定できたから環境が変わったのか、この因果関係は正直よくわかりません。この時にスイッチがカチッと切り替わった、という決定的な出来事もありません。ただ、今とても「生きている」と感じています。自分で自分を尊重しながら生きてる。書いていても思うのですが、こんなにも嬉しく誇らしいことはないですね。今、とてもご機嫌に日々を過ごせています。

この1年でできなかったこと

なんだろう。
例年このセクションは割とスッと書けるのですが、珍しくちょっと止まってしまうくらい、今とても穏やかな気持ちです。

ふと、もしかしたら「できない」という認知の方法からかなりご無沙汰してしまったのかもしれないなと。これまで自分にとって「できない」はある意味着火剤のような役割もありました。どうにかしたい、どうにかしなくちゃという気持ち。でもここ最近は燃えているものがない。大きく欲しているものがないんです。
冒頭でも少し触れましたが、直近の意思決定軸は「堪能」と「共存」。このことを踏まえると、今は何かを欲して獲得しようとするモードではないのかもしれないなと。しかしこんなところで再認識するとは…。面白いなぁ。

来年は何か浮かんでいるのでしょうか?ちょっと興味深いですね。浮かんでなかったらよしなに変えます。多分。

この1年の印象的な知見や体験

自分が変われば相手が変わる、 環境が変わる、世界が変わる

これは元々ロールモデルの言葉なのですが、この1年間でより実感したという意味もあり、このタイミングで取り上げました。

去年行った「ザ・メンタルモデル」という書籍を活用したワーク。私はここで、1人でも平気だというふりをしながら本当は誰よりもつながりを求めている自分自身に気づきました。

そして不思議なことに、その思いに気づいてからは、決して多いとは言えない中学時代、高校時代、大学時代の友達たちに、何十年ぶりかに再会するという出来事が続きました。

ご飯を食べながら疎遠だった間の出来事を話したり、お互いの価値観や悩み、未来の話などを共有したり。驚くことに、当時でもしたことのなかった「友達の家に遊びにいく」というイベントを、この20代後半のタイミングで初めて体験したり…。
その中でも特に「私はあなたの味方だよ」という言葉を伝え合った時、ああ、私が求めていたのはこういう体験だったのかもしれないとストンと腑に落ちるような感覚がありました。

そして今、住む場所も働く場所も変え、また新しい「つながり」へ飛び込んでいる自分がいます。つくづく、人との出会いは交差点のようだな、と思います。どこかの一点で出会って、離れて、その繰り返し。時々、一度出会った人とまたすれ違う時もある。今私はそんな交差点の中心に立っているんだなと思うと、1つ1つのつながりに対してじんわりと愛おしさが湧いてきます。

世界や環境を変えたいなら自分を変えろ、と聞くとかなり重く感じるのですが、この「自分が変わる」はあくまでもステップアップ的な文脈ではないんだなと。あくまで今までとはちょっと違った世界観を求めるようになったとか、そんな内側の変化なのかなと思います。この些細な変化が、1年前には想像もしていなかった場所へと連れて行ってくれたのだと思うと、やっぱり不思議な力を感じてなりませんね。

私の物語は私たちの物語になる

5月ごろ、「コミュニティ・オーガナイジング」のワークショップに参加しました。
コミュニティ・オーガナイジングとは、一般市民が団結して社会を変えていくための考え方のこと。日本では一揆、海外ではデモなどが想像に易いです。私自身もワークショップの情報を聞くまでは全く知らなかった領域でしたが、数日おきになぜか情報を見返していることに気づき、「これは呼ばれているな」と半ば勢いでとびこみました。

ワークショップでは、個が周りの人を巻き込んでムーブメントを起こしていくまでの手法を実践的に学んでいきました。たかがワークショップという驕りは一切なく、リアルな知人の名前を同志として挙げてみたり、今後1年間のスケジュールに落とし込んでみたり。全日程が終わった後もそのまま活動が続きそうな具体性を持っていて、総じてとても濃厚な経験ができたと思っています。

その中でも特に私の心に残ったのは、個の問題を集団の問題へとリフレームしていくための伝え方です。
言わずもがな、チームのみんなが経験したきたことや、そこで感じてきた思いは人それぞれ。今思えば、それまでの私はそんな個が持つ背景は自分だけのものでしかなく、必ずしも周りの人と共感し合えるものではないのだろうな、と無意識に捉えていたところがあったのだと思います。
でもチームのみんなで個の物語を共有し合うと、コトは違えどそこから導かれた価値観はどこかしら重なっていて。また私が他の方の物語を聞いた時は、まるで自分が追体験をしているような感覚にもなりました。
自分ゴトは決して自分だけのことではなく、私たちみんなが抱えていること。私たちが全員で変えていきたいこと。個が自発的に叶えたいことを繋げていけば、到底打ち勝てなかった出来事にも集団で立ち向かえるようになる。そんな世界観を肌で感じ、なんだかとても勇気をもらえた2日間でした。

またこのワークショップを経て、自分の中には「ひとりを独りにしたくない」という想いがあるんだな、ということにも気づきました。これについては、また時間をかけてじっくり温めていきたいと思ってます。

28歳、これから目指したいもの

シンプルに「味わう」をもっと深めたいです。
何に対しても掻き立てられるような焦燥感がない今だからこそ、一度立ち止まって1日1日を味わいきりたい。なんでもない日々の美しさを感じて、ゆったりと心地よく自分を生きるのが次の1年の目標です。

ただその中でも少しエネルギーを使っていきたいのが「学び」の分野。(なんだかこれ毎年書いてる気がしますが。)
仕事環境が変わったので新しい知識もインプットしたいし、それ以外の領域でもアンテナが立ったものは積極的に学びに行きたいなと思います。今のモードはあくまで「堪能」ですが、学び続けて何かを「獲得」したくなったら、その時はその時の自分に任せます。

…といいつつ、今の生活でも割と安心とワクワクのバランスが整っているので、言うなれば今の状態をもう少し続けたいですね。既に自分のみたい世界はみてる。ありがたいことです。

また次の1年を無事に過ごし終えられたら、重い腰を上げてnoteに向かおうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?