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いつの間に未来


”Also, was denkt ihr in der Zukunft?”


平成最後の夏、わたしはドイツ・ベルリンにいる。ワーキング・ホリデーで一年間の滞在をベルリンに決めたのだ。平成最後の夏は、わたしにとって二十代最後の夏でもある。平成元年生まれ、平成育ち。その平成の夏が終わるという。わたしが日本にいない間に。

わたしは現在、ドイツ語を習得するためプライベートの語学学校に通っている。もともと勉強は好きだ。毎日、少しずつではあるが徐々に異国の言葉を理解できていくのは楽しい。授業は平日、一日4時間ほど。クラスメイトは少なければ5人ほど、多くて20人ほどの時もある。国籍もバラエティ豊かで、アメリカ、メキシコ、中国、ロシア、デンマーク、ブラジル、など、様々な国から生徒たちは集まっている。一言でいうと、彼らはとても自由だ。授業の進み具合なんか全く気にせずに、些細な疑問はすぐに質問する。リスニングが聞き取れなければ聞き返すし、喉が乾けばいつだって水分をとって、おなかがすけばいつだって食べる。テストの前だってそんなに緊張しない。

「なぜそんなに緊張するの?間違ったらそれは、自分がその部分をわかっていなかったってことが分かるってだけなのに」

それはわかっている。それでもテスト前は緊張して、少しでもいい点を取れるように頑張ってしまう。日本にいてもベルリンにいても、わたしはあまり変わらないみたいだ。彼らのそのような考えを素敵だな、と思いつつ、自分はそうは思えないな、と思う。そして、それでいいんだろうな、とも。


日々の授業は教科書によって進められていく。大学を卒業してからずっと仕事のことしか頭になかったわたしにとって、新しい言語を学ぶことは懐かしく、楽しいことだ。先日、教科書のあるレクチャーでわたしたちは「未来」について話し合った。教科書は各章ごとに大きなテーマがあり、「未来」のテーマではロボットや機械など、わたしたちの生活はどう変化していくか考えようというものだった。

突然だが、わたしはこのような空想が苦手だ。特に「未来を想像して、好きにあなたの考えを描いてみよう!」という内容のものが特に苦手だ。何か先に文章があって、「この時の彼の気持ちを述べよ」などといった問題については簡単に解けるのに、何もないところから想像して、それをみんなの前で披露するということが苦手なのだ。どう答えようか迷っているうちに、先生が問いを読み上げ、順々に生徒に未来がどうなるかについて意見を述べさせる。


”Und, Nazuna? (じゃあ、なずなは?)"


結局わたしには全く思い浮かばず、前の人が言った意見に賛同した。それはそれで、ありなのだ。先生は頷いて、また色々な意見を聞いていく。

その意見の中に、「将来、人間は目の中にカメラを内蔵できて、見たものをそのままデータ保存できるようになる」というものがあった。映画で見たことあるやつだ。瞬きをするとシャッターになって、その人が見ている光景を写真として保存できる。

正直、ほんとかなあ?と思っている。

だって目にカメラを内蔵できるということは、すごいことだ。コンタクトみたいに装着するのだろうか。瞬きでシャッターを押せるというけれど、瞬きってそんなに制御できないからすごいデータ量になるのでは?撮ったデータはどうやって保存されて、どこに送信されるのだろう。でもできたらすごい。もちろんそう思う。けれど、みんな何をそんなにデータとして残すのだろう。写真を撮ること、また見せ合うことは、今では当たり前の文化だ。インスタグラムを筆頭にフェイスブック、ツイッター、ミクシィなどSNSでは膨大な写真が共有されている。自撮り、インスタ映え、美肌アプリ…わたしたちは写真を撮ること、残すことにいつから敏感になったのだろう。

写真を残すということに、わたしはずっと抵抗があった。というのも、わたしはずっと自分の容姿に自身が持てず、また自分の映った紙にそんなに価値があると思えなかったからだ。この話はきっと自己肯定感の低さとかそういうことに繋がっているのだろうけれど、とにかくそういう理由でわたしは写真を撮られるのが大嫌いだった。

でも、ふと思う。目にカメラを内蔵して自身の見ている風景を切り取れる。それはすなわち、自分は写真には映らないということ。自分の見ている風景や人、物を、自分が見た角度、色合い、時間を記録できて、それを共有できるということ。それはすごいことだと思う。わたしたちは「完全に同じ風景」を共有することはできない。例えば二人で同じ景色を見ていても、物理的に「あなた」と「わたし」の目の位置は自ずと異なる。仮に全く同じ位置から同じ方向を見ることができたとしても、それには必ず時間経過が伴っている。わたしたちは「完全に同じ風景」を共有することは、現在できないはずだ。しかし、目に内蔵されたカメラを通じれば、もしかしたら可能になるかもしれない。リアルタイムで見ることは不可能でも、写真を通じて「わたし」が見た光景を「あなた」に見せることができるのだ。

もしもこのカメラが実現した時、人は何を写すのだろう。今までのような自撮り写真は減るような気がする。きっと自分が見た、美しいと感じた景色や、面白いと思った物、悲しいと思った光景、愛しいと感じた瞬間。そんな写真が増えるのではないだろうか。自撮り写真が嫌いなわけではないけれど、共有したいと思った景色が自分の見たまま共有できることはとても意義のあることだと思う。

わたしは、目にカメラを内蔵できたら何を撮りたいだろう。考える。わたしは、自分が死ぬ前の瞬間を撮りたいな、と思う。死ぬ前に、一番最後に見た人を、一番最後にそばにいてくれた人をデータとして残しておきたい。そのデータがどうやって回収されるかはわからないけれど、きっとどうにか回収されて、そのデータを最後までそばにいてくれた人に渡したい。そばにいてくれてありがとう、という意味を込めて。わたしは最後まであなたを見ていたよ、という意味を込めて。


平成最後の夏はどうやらまだまだ終わる気配がないけれど、未来の、もしかしたら起こりそうなことを考えて過ごすのも悪くない。…とりあえず、臨終にそばにいてくれる相手をまず見つけます。


写真:utsubo_labさま♡