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たかが、されど、前歯(2)

わたしの前歯は今、治療の真っ最中である。

7年前に前歯を無くしてからずっと、わたしの治療された前歯はよくがんばってくれたと思う。しかし、歯としての機能は問題なくても見た目にはかなり難があった。
前歯の先、4分の1。よく見れば明らかに作り物ではないことがわかる、わたしの歯。そしてその歯が埋め込まれたわたしの歯(残り4分の3)は、神経を抜かれたことで黒く変色していった。ちょうど芸人のハリセンボン・箕輪はるかさんが前にネタにしていたみたいに、わたしの前歯は全体的に灰色になってしまった。鏡に映った自分の歯を見ながら思う。あの芸人さんは、どんな気持ちで自分の歯をネタにして人を笑わせることができていたのだろうか。メンタルが強すぎるのではないだろうか。

日本での仕事は営業事務でお店に立っていたのだが、ドイツに渡ってからも接客業を続けた。日本料理レストランと、店舗の販売員。どちらもお客様に対しての仕事だ。接客を続けながら、不意に気になる。この人、わたしの歯が変なことに気づいているだろうか。
ドイツで好きな人ができてその人に向かって笑いかけるとき、いつも気になる。この人、わたしの前歯が変なことを嫌がらないだろうか。好きな人は小さな、綺麗に並んだ歯を持っていたからなおさら。
対面する人にその歯のことをどう思うか直接聞いたことはない。ただ、絶対に気づかれているだろうな、とだけ思っていた。
時折洗面台の鏡の前で歯の裏側を見てみる。裏側から詰められているものは完全に真っ黒で、この詰め物が黒いこともわたしの歯が灰色に見える原因の一つだったのかもしれない。しかし、自分で取り替えることもできない。
ちなみにドイツでは歯の治療は全て自費で、普通の保険では保証がされていない。わたしはドイツで歯の治療をすることを諦めた。

さて、そして日本での治療である。
これまでの経緯を話すと、先生はまずそれまで詰められていた真っ黒に変色した詰め物を取り外し、新しい薬と詰め物に交換した。それから薬の交換を何度か行い、落ち着いてきたら被せの元になる土台と、歯の型をとる。
詰め物を新しくしたら少しはましな色になるかと思っていたけれど、それは違ったみたいだ。先生からは、神経を抜いたことと薬の影響で歯自体が黒くなってしまっているとのこと。そうだったのか、そりゃ詰め物をとっても色が変わらない訳だ。

治療は順調だった。
薬の交換をはじめて一ヶ月が経った頃。歯の型をとった。
わたしの被せがいよいよ作られるのだ。三種類のものがあると言われた。保険が効くけれど安価なもの、保険が効かないけれど比較的安価なもの、保険が効かず高価だが、見た目は本物の歯のように見えるもの、の三種類。次の治療で聞きますのでどれがいいか選んでおいてください、と言われた。
この時ほど即決で、一番いいのにしよう、と思ったことはない。ずっとずっと小さいストレスになってきた前歯。これが普通に見えるなら多少値が張っても構わないと思った。これでようやく普通に人とおしゃべりできるし笑うことができる。そう思ったら他の選択肢は簡単に弾かれてしまった。7年前とは大違いである。
つつがなく型取りが終わった。次の治療は土台を入れましょうね、と言われた。ようやく前歯が帰ってくるのだ。そう思ったらとても嬉しかった。

その次の日。
わたしはとても油断していた。
その日はバレンタインデーの前日で、わたしは家でメレンゲクッキーとブラウニーを作っていた。メレンゲクッキーは韓国で流行っているらしい、卵白と砂糖をふわふわに泡だてて絞り袋で絞り、わんちゃんの形に焼いて、デコペンで目と鼻をつける。

「よし」

全て焼き上がり、わんちゃんの顔もつけられた。
焼きたてのメレンゲクッキーをかじってみる。甘くてサクサクして、美味しい。ブラウニーは焼きたてよりも冷めてしっとりしてからの方がおいしいかも。これはもう何度も作っているから味には問題ないはず。
上出来だと自画自賛していると、余ったデコペンが目に入った。新しいものを一本丸々買ったものの、使ったのはほんの少しだけ。残りは…捨ててしまうのも勿体無い。
どうしよう?
うん、食べてしまおう。
単純にそう思った。デコペンを手に取ると、まだまだ中身はありそうだ。いただきます、と呟いて、わたしは冷えて少し硬くなってしまったデコペンをかじった。その時だった。

ぽきん、

と、チョコの味が広がったと同時に音がした。口の中から。
嫌な予感がして、口の中に残った異物をティッシュに取り出す。
この黄色がかったかけらはーー歯だ。
そう、デコペンをかじったとき、わたしは不用意にも治療中の前歯の部分を使ってしまったのだ。デコペンはすでに冷えていた、つまり中身のチョコレートは固くなっていて、それを押し出すのに前歯を使ったのは、無意識だった。
しかしその衝撃に耐えることができなかったわたしの前歯の先4分の1は、簡単に折れてしまった。そもそも何度も薬を入れ替えたことで、わたしの歯は随分と脆くなってしまっていたに違いない。しかし、迂闊だった。やってしまった。
焦りながらも、しかし一番最初に歯が欠けた時ほどの焦りではなかった。急いで診察券を持ってきて歯医者さんに電話をかけようとした、が、その日はあいにくの休業日。なんてついてない。
よくよく取れたかけらを見てみる。そして歯の裏側を観察してみる。
裏側からは、中の薬が見えたりはしていない。ということは、これが取れたからといってすぐに処置が必要な訳ではないだろう。それに昨日、歯の型はすでに取り終えている。欠けた部分は少しザラザラするけれど、痛みはない。
うん、大丈夫…なはず。
どきどきしながらも、わたしは自分に言い聞かせた。いずれどのみち取れる運命だった部分なのだ。今日欠けてしまったことに何も問題はない…はず。
どきどきしている。しかし、今すぐどうにかすることもできない。

今わたしがやるべきことは…うん、残りのデコペンはやっぱり捨てよう。