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一人の君に許される

 あの人に僕の全てを許してもらおう。

 そう決めた。

 神様に許してほしいのではない。
 一人のあの人に許してもらう。
 社会的な ―― 謝ったから許すとか、優しくしてくれたから許すとか、許してくれたから許すとか ―― そういった許しではない。
 ただ、僕というを許される。

 そう決めた時、戸惑い抵抗しているのは僕の側である、ということに気付いたのだ。

 本当に、何もしないままでいる僕そのものが、許されてしまっていいのか?
 神でも仏でも、何ら至高の存在でもない一人の君に、許されてしまっていいのか?

 そのような抵抗感。
 故に、今日決意して明日済む、という手軽さではない。

 溶け合い一つになってしまうこと、ではないのだ。
 君は君として、僕は僕として ―― どこまでも異なる他人同士という関係性の間から、一人の君に許される、というものが生じてくる。
 そう。他人同士だ。
 だがそれでいて、深い繋がりを経なくては、許しと呼べるほどの強度とは生じてくるまい。

 全く別個でありながら、繋がりは強く深い ―― それは一体なんだ?

 その謎を、思い考え感じ取るまでに至ること。
 そうでなければ、あの人の許しというものは得られない。

 気をく世辞は、もう必要ないのだ。
 許す君を、許される僕を、感じ取り表せるまで検討することが必要である。

 それでようやく、あの人に僕の全ては許されるだろう。

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