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「しんどくなさ」を求めて転職して、8年目の話

人に怒られるのが何より苦手だった。
怒られるくらいなら死にたい、みたいなメンタルでずっと生きてきた。


もう和解したけれど、この大部分を形成したのは、父の怒鳴り声だ。

幼い頃から、父が日々、イライラを募らせていくことにも、
ある日爆発して1時間も2時間も正座させられ、罵詈雑言を怒鳴り散らされ、最後には目眩がするような拳骨を埋められることにも、
それが終われば朗らかで優しい父になることにも、
実家にいた18年間、最後まで慣れることはできなかった。


そして、そんな日々の後遺症がひどいものだということを、大学進学で家を出た後に、私はすこしずつ思い知らされていった。

誰かがついた溜め息ひとつに、全身の力が抜けるような恐怖を感じる。
人の顔色を伺い、怒られたくないあまりに、圧倒的な譲歩をしてしまう。

相手の期待に応えられないことがどうしようもなく怖くて、今なら「もうやめときなよ」と思うような場や人からも逃げられなかった。
自分の一言一句で相手を怒らせていないかが常に怖くて、夜中に会話の断片がフラッシュバックし、一人叫ぶのが常だった。

低過ぎる自己評価、傷つくことに対する過剰なほどの怖がり、だからこそ、盾のように塗り固めたプライド。

そういう極端すぎる自分のすべては、ただただ自分生来のものだと思っていたし、そんな自分を、もちろんずっと大嫌いだった。
どうにかしようともがきながら、一進一退を繰り返す。それが私の20代だった。


27歳になった秋、私は転職先を探していた。

人生にも、自分にも、だいぶ冷静になってきた、つもりではあった。

新卒で入った会社では、やりたかった編集の仕事をさせてもらった。心身共に無謀なペースで仕事に捧げ、少しは達成感も感じたりできた。

その一方で、もらえる気配もない決算賞与、それどころか給料の遅配、重なる残業、上司からのパワハラ。
「働き続けられる会社ではないな」という気持ちは、日々確実に膨らんでいった。


転職に本腰を入れたとき、新卒の時にあったような「職種への憧れ」は、きれいさっぱりなくなっていた。

それよりも、残業がなくて、ボーナスがあって、全力で背伸びし続けなくても生きていけそうで、不安定なこの心身の健康を保てるような会社を求めていた。


ネットで出会ったその会社の求人情報には、顔に「いいひと」と書いたような、満面の笑顔の男性が写っていた。

募集職種は「企画営業」。「企画」という言葉だけが都合よく、私の中にひっかかった。

「しんどくなさそう」

求人ページをひと通り読み、第一印象をそう結論づけ、私は応募のボタンを押した。

一次面接に行くと、3人の男性営業マンが座っていた。
3人とも、顔に「いいひと」と書いていた。
とにかくにこやかで、受け応えにソツもトゲもなく、なによりも仲が良さそうだった。

「私、お酒飲めないんですが、営業は飲めないとまずいですか」
「たくさん飲む営業マンもいれば、飲まない営業マンもいるから大丈夫だよ」

「数字のノルマってあるんですか」
「あるけど、なるべくクリアできるように先輩がサポートするから大丈夫だよ」

「ペーパードライバーですけど、大丈夫ですか」
「免許持ってない営業マンもいるくらいだから大丈夫だよ」

沢山質問されて、して、面接なのか談笑なのか分からなくなったところで面接は終わった。
ビルを出て気づけば1時間半ほども話していて、全く自分が疲れていない、それどころか、もっと話していたかった気さえしていることに驚いた。

その後、これまた穏やかな役員面接を経て、私はあっさりとその会社に入社した。
2回の面接で繰り返し聞かれたのはひとつだけ。

「来月、社員旅行があるんだけど、そういうの嫌じゃないかな?」

平和な会社だなあ、と思った。その穏やかさにとても惹かれた。

それはBtoBの製造業で、社員は工場も含めて百人程度。
社員の既婚率も、子煩悩率も高い、小さいけれど元気な会社だった。


入社後、想定していなかったことがふたつあった。

ひとつは、想定していたよりも数字を追いかける「営業」だったこと。
もうひとつは、製造業の宿命「クレーム対応」があったことだ。

最初は、そのどちらもが、嫌で嫌で仕方がなかった。

繰り返しになるけれど、私は本当に、何よりも怒られるのが苦手なのだ。
営業の数字が足りない時も、クレームがでてお客様に謝りに行くときも、最初の頃は、内心パニック状態だった。
会社携帯を持つのすら嫌で、いつ携帯が鳴り響いてお客さんに怒鳴られるかと、最初はずっとヒヤヒヤしていた。

そういえば「営業」なんて、昔は一番したくない仕事のはずだったのに。
何をうっかり営業になってしまったのだろうと、悶々としたことも正直、あった。


顔に「いいひと」と書いていた先輩、上司たちは、そんな私を適当に見守ってくれていた。

大人たちのする「適当」。
それは何よりも心地よかった。

変に心配もされず、まあ大丈夫でしょうという謎の信頼のもと「適当」に見守られている。
トイレで泣いて席に戻っても誰も私を気にしちゃいない。それでいて、数字が足りないときはサクッと手助けしてくれる。お客様とこじれそうなときは、ささっとあいだに入ってくれる。

そうやって適切に、温かく見守られながら、一年、また一年、仕事を重ねていくにつれて、私のお客様も少しずつ増えていった。

友人のように仲良くしてくれるお客様や、親戚のように世話を焼いてくれるお客様にも恵まれた。
クレームを起こしてしまっても、最後には、今まで以上の関係を築けたお客様もいた。

そうやって働きながら、私は、いくつものことを教わった。

普通の人は、頭ごなしに人を怒鳴ったりしないことを。
見放すようなことも、人間性を揺るがすようなことも言わないことを。

あまりにも無茶を言われるときは食らいつき過ぎなくてもいいし、怒られてもそれで全部が終わりになるわけじゃない。

なにより、もしも失敗しても、クレームが起きても、しっかり謝って対応して家に帰れば、リラックスして笑ってもいいんだということを。


そうやって日々を繰り返すなかで、自分の中にあった「怒られたくない」という頑とした巌のようだった塊が、少しずつ融解していった。

自分自身に「ちょうどいい自信」を持ちながら、人と気楽に話せるようになったし、いまいち盛り上がらなかった場も、ある程度「まあいっか」で済ませられるようになった。

なんか違うな、と思えば余計な気を遣わずにそっと関係から身をひいたり、逆にいいなと思えば、自分ひとりでも自由に動けるようになっていった。




気づけば今年で、あっという間に8年目になる。
その間に私は結婚して妊娠し、産休育休をもらって、この春から復帰した。

復職後、噂には聞いていたけれど、息子は保育園でしょっちゅう風邪をもらってくるようになった。
特にこの2ヶ月は酷くて、合計で14日有給を使い、それ以外にも何日か早退をしている。

それでも、私は、本当に一度も、誰からも、嫌味を言われたことがない。

「すみません…」
と言って席を立つ時、いろんな人からお疲れ様、と、労りの声や目線をもらう。

「うちもね、1年くらいはずっとそんな感じだったよ」
なんて、立ち話の中で言ってもらう。

子持ちの人が多いなとは思っていたけれど、それがこんなところで恩恵として返ってくるとは思わなかった。


「しんどくなさそう」

私の最初の直感は、私にとって一番大切にしたかったところで、当たっていたと思う。
この会社は、有名でも大きくもない会社だけれど、働いている人たちは自然体で、地に足がついた人ばかりだった。

変にいじわるだったり、ヒステリックだったり、プライドが高かったり、射幸心や出世欲に走ったりする人がいない。

そしてお互いがそうあれるよう、管理職の人たちが全体をよくみて、調整してくれている。

ここにいるといつも思う。逆の立場になったら「恩返しがしたい」と。


「しんどくない生き方をしている、できるようになっている」
そうした人たちの間にいることで、私はたくさんのことを教わっている。
今も、日々。

私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。