傷ついた自分を無視するとトラウマが生まれる
自分と向き合うワークなどで「トラウマを書き出してみましょう」「ゆるせない出来事はありますか」といった設問に出合ったとき、何も思い浮かばなくなっている私がいます。「以前はあのことが胸に引っかかっていたけど、今は気にしてないなあ」という出来事ばかりなのです。
このnoteで様々なトラウマをエッセイとして書き綴ってきた中で、トラウマたちと向き合い、消化・昇華できたおかげなのだと思います。
トラウマと向き合うのは、かさぶたを今更引き剥がすような行為です。そっとしておきたい。なかったことにしたい。見たくない。せっかくここまで治ってきたのに、わざわざ剥がして生傷状態にした上、塩を塗るようなものです。
実際、私も過去の辛かった出来事をnoteに書きながら長時間号泣し、翌朝まで目が腫れてひどい顔になってしまった回もあります。
(参考↓:一番泣いた回「あの人に嫌われた、と思ったら」)
けれど、胸をえぐられながらも真っ向勝負でトラウマと向き合うと、その傷は一気に完治する、と実感しています。むしろ、向き合うことでしか解消できないと思います。辛い出来事は自然と忘れるのが理想かもしれませんが、小さなトゲとなって心に刺さると、自然に抜け落ちることは無いのではないでしょうか。一見忘れた気になっていても、何か、どこか、しこりのように、重しのように心に存在し続けていると、私は思います。
トラウマ、という言葉から連想するのは人生の転機となり得る一大イベントですが、私にとってトラウマとなっていたのは誰かの些細な一言やリアクションに傷ついたという、日常レベルのことが大半でした。
例えば、新卒で就職することができなかった、とか、大学時代のダンスサークルで万年補欠の座に決められたとか、いわゆる「挫折」にカテゴライズされるようなショックな経験を、私はこれまで何度もしています。そうした挫折経験には「若くして無職状態となった」「ダンスの学生大会にレギュラー選手として出場できなくなった」といった、実害と言える影響を伴います。
しかし、それよりも私の心を蝕んできたトラウマは、父から発せられた言葉であったり、姉と比べてダメ出しをされたことであったり、実害はないものの傷ついた経験たちです。姉よりもピアノが下手と言われたところで、その場で私が傷つくだけで何か実害があるかと言うと特にありません。姉より下手だから翌日からピアノを禁止されたとか、そういう出来事ではないのです。
そんなささやかな日常会話レベルのことが、なぜトラウマになってしまったのか。
それは、傷ついた自分とその場でちゃんと向き合わなかったから、ではないかと思っています。
先に挙げた「新卒で就職できなかった」件などは、散々向き合わざるを得ない出来事でした。実害があるからこそ、「無職無収入」の実害を被りながら、親からイヤミを言われたり無収入なのに納税手続きをしたりしながら、「新卒で就職できなかった」現実を受け止め咀嚼するほかなかったのです。その結果、新卒採用してもらえなかった件は私の挫折経験ではあるものの、トラウマとして傷が残ることはありませんでした。
対して「姉と比べてピアノが下手と言われ傷ついた」件は、言われたその場でチクリと胸が痛んだのに傷ついた自分を認めず、大したことではないと自分に言い聞かせて流してしまった出来事でした。その時その場ですぐに、チクリとささったトゲを真っ直ぐ見て、痛みに涙を流しながら抜いておけば、トラウマにはならなかったのかもしれない、と思うのです。
大人になってからトラウマに向き合い、消化して昇華する勇気を持てると、向き合う時間は辛いけれど、その後の人生の心の軽やかさが全く違います。だから私は、noteに書くことでトラウマたちと向き合えて良かったな、と今思っています。新たに思い出したトラウマがあれば、積極的にnoteに書こうとすら思えています。
そしてもう一つ、自分の気持ちをそのまま、真っ直ぐ受け止めていこうと、今回のnoteを書いてみて改めて思いました。自分の感情は自分が一番大切にしてあげよう。見て見ぬふりはしない。何を思っても大丈夫。自分だけは自分の正直な思いをそのまま受け止めようと思います。
小さなトゲを心に刺さったままにしないように。
新たなトラウマを生まないように、そうしようと思うのです。
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