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「配慮」という資源

昼過ぎのネパール料理店で、隣の席の東南アジア系女性がクシャミをした。
だれも気に留めていなかったように思うが、それでも彼女は「ごめんなさい」と呟いた。

一人で来店していたところをみると、多分私たちや他の客に向けての言葉だと思う。

そのときは、なんとなく彼女の方を向くことをしなかったが、すぐに「気にしていませんよ」という意味合いの会釈くらいしてもよかったと後悔した。

少しの罪悪感と「なんとなく珍しい体験をした」という感覚に陥りながらも、私の意識は運ばれてきたチーズナンに移っていった。

*

「ああ、配慮だ。私は周囲に配慮している人を見たんだ」

「なんとなく珍しい体験」の謎は家に帰ってから見つかった。

彼女が発した「ごめんなさい」の意味は、食事中の空気を悪くしないための周囲への気遣い、すなわち「私たちへの配慮」だ。

一方で、私視点から物事を見ると、「配慮できる人を認識した」ともいえるだろう。

「配慮」という言葉はここ数年の間に広く浸透したように感じる。

「人には思いやりを持って接しましょう」
「○○な点を配慮していただければ助かります」

そういった声を挙げてくださる方のお陰で、私もすごく生きやすくなったし感謝している反面、「私はあなたに配慮します」という自発的かつ積極的な意思表示はあまり見聞きしない。

そもそも、「配慮する」という行為は誰かの厚意がないと成り立たないが、思いやりを持つためには心にゆとりも必要だ。

ストレスや不安が多い現代社会では心が削られていく方が圧倒的に多い。
今は誰かに優しくできる人も、ある日突然、「今後は対応できない」と拒否してしまう可能性も考えられる。

優しかった人がそこまで追い詰められてしまうと酷く悲しいけれど、資源と同様に思いやりも枯渇することはあり得る話ではないだろうか。

配慮も思いやりも強制ではないからこそ、みな不公平さを感じてまで、与える側ばかりにはなりたくないだろう。

彼女自身、「ごめんなさい」という言葉に深い意味はなかったかもしれないが、私はきちんと「配慮」として受け取りたい。
配慮を「配慮だ」と認識することが、せめてもの礼儀だと思うから。そして、誰かに還元できる自分でいたい。

私ができることなど何の足しにもならないかもしれないが、「配慮不足」の未来が来ないように少しでも悪あがきをしよう。


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