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【連載】チェスの神様 第三章 #4 加奈子

 昨晩、悠と電話で話したことを何とか忘れようと、私は朝からせっせとおめかしにいそしんだ。
 とっておきの白のワンピースの胸には、おばあちゃんが手作りしてくれたコサージュをつけた。鏡の前で念入りに髪の毛に櫛を入れ、前髪の角度を調節する。買ったばかりのイヤリングと口紅を塗ったら、こんな私でも大人びて見えた。
 アキは喜んでくれるかしら? でも今日の目的は勉強すること。デートではないし、見た目にはこだわらないとも言われたが、めかしこまずにいられないのが女心というものだ。
 約束の十時ちょうどにつくと、アキはすでに図書館の前で待っていた。ストライプのシャツに、前回と同じくお兄さんのブルージーンズをはいている。
「お待たせ。早かったんだね」
「今着いたところ。……えーっと、今日ってデートだったっけ?」
「勉強会だよ。……この格好じゃダメだったかな?」
「ううん。……勉強に区切りがついたらそのまま街に繰り出したいくらい」
「アキがそうしたいなら」
「ホントに? やっぱ、兄貴の服を借りてきて正解だったなぁ」
 アキはさっと私の手を握った。温かくて、しなやかな指。触れ合っているだけでドキドキする。この時間がずっと続けばどんなにいいだろう。けれど、そう思えば思うほど、私の心に刺さった「悠」というトゲの痛みを感じるのだった。

 勉強を教える、といってもわからないところを尋ねられなければ手持ち無沙汰だ。適当な本を棚から取り、読み始める。しかし五分もしないうちに飽きてしまい、代わりにアキの顔を見つめることにした。
 集中しているときのアキはこちらの視線には全く気付かない。私はそれを知っている。
 教科書とノートを行ったり来たり。その真剣なまなざしはチェスをしているときと同じだ。ノートに目を落とすと、意外に整った字を書いていることに気づく。おとなしいアキの性格を物語っていた。
「うーん……。ここの解説、お願いできるかな……。やっぱり古語が難しくて」
 アキが指さした箇所を見ると、源氏物語「夕顔」で、夕顔と源氏がたがいに和歌を贈りあっている場面だった。

 (夕顔)心あてにとぞ見る白露の光そへたる夕かほの花
 あて推量ながら、あなたが折ったのは白露に光る夕顔の花でしょうか。あなた様はもしや光の君ではありませんか。
 (源氏)よりてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔
 近寄ってこそ、夕暮れにぼんやり見た花が夕顔かどうかわかるでしょう。私にも近づいてみれば、光源氏かどうかわかるというものです。
 
「夕顔は、お忍びで乳母の家へ見舞に来ていた光源氏の姿を垣間見てその人だと察し、この和歌を贈ったの。源氏はこの、身分の低い素性の知れない女にどんどん惹かれていく。その最初の場面よ。『たそがれ』は、『黄昏』と『誰そ彼』が掛け言葉になっているのがわかる?」
「あ、そうか。エリーの解説、わかりやすいから助かるよ」
「どういたしまして」
 そのあといくつか躓いた問題を教えたが、そのうちに質問されなくなった。
 気づけば、私の頭は悠のことを考えていた。
 悠は私の病気について本当に理解しようとしているのだろうか。もちろん、検査結果が出たわけじゃないから、私自身、医者の推測をうのみにして悲観的になるつもりはない。それでも、生理が来ないのは事実であり、正常でないことだけは確かなのだ。
「生理が来ないならやらせてくれてもいいだろう?」
 いつだったか、悠が言ったことがある。その言葉に私はひどく嫌悪感を抱いたものだ。自分を粗末に扱われているように感じたからだ。おそらくその言葉がきっかけとなって、体を触れられることが嫌になったのである。悠は気づいていないだろうけれど。
 体のつくりはいまだ少女のままかもしれない。でも心は十八であり、女として見られたい。
 実は、その差に自分でも戸惑っている。恋人を受け入れる用意がないのに、本能が欲してしまう。いっそのこと、ブスだったら男に好かれることもなかったかもしれないと思うことさえある……。
「エリー?」
「え? ああ、ごめん。なに?」
「どうしたの? ぼんやりして。……考え事?」
「ううん、何でもない。それで? 勉強ははかどってるの?」
「気になってそれどころじゃないんだけどなぁ……」
 今度はアキが私を見つめる。自分の妄想が恥ずかしくなって思わず目をそらす。せっかくアキと二人きりで会っているというのに、私はいったい何を考えているのか。
「……ごめん。ちょっと外の空気を吸ってきていいかな」
「うん。そうしたほうがいい。本当に調子が悪いなら帰ってもいいんだよ」
「ありがとう。落ち着いたら必ず戻ってくるから」
 その証に荷物をアキのそばに置いておく。彼の心配そうな表情に、かえって申し訳ない気持ちになった。

 図書館の外は初夏を思わせる日差しだった。まだ四月とは思えない陽光のまぶしさに目を細める。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。悠とはきっぱり別れてしまうつもりだったのに、引き留められ、別れを保留することになってしまった。
 優柔不断な自分が情けない。優しい言葉を掛けられ、自分の気持ちを貫くことができなかったのだから。悠にも変な期待を持たせてしまっただろう。悪いのはみんな私。私の気持ちが揺らいでいるせい……。
 そんなことを考えているうちに、本当にめまいがしてきた。玄関の日陰に腰を下ろそうとした時、正面から姿勢のいい女性がやってくるのが見えた。
 ウエーブのかかった長い茶髪にサングラスをかけている。黒地のワンピースから伸びる足は引き締まっていて、かかとの高いハイヒールがよく似合っていた。
 その人が、私の前で立ち止まった。顔をあげると彼女はサングラスを外した。
 目の下にはややたるみが見え始めるものの、整った顔立ちがそれを目立たなくさせている。エクステなのか、やたらと長いまつ毛とカラーコンタクトのせいで外国人にもみえる。
「吉川映璃ちゃんね?」
 彼女は開口一番、私の名前を呼んだ。返事をしようか迷った。その目をじっと睨みつける。相手も同じようにこちらを睨んだような気がした。
「……加奈子なの?」
「母親を呼び捨てにするなんてひどい娘ね」
 いやな予感は的中した。この女が私の実母。父とは、新人舞台女優だったときに出会い結婚したと聞いている。おそらくは今も現役なのだろう、表面上は美しい。が、腹の中では何を考えているか分かったものではない。何しろ、父と違い、この女は私を本当に見捨てたのだから。父に、私から連絡するよう伝言したはずだが、待っていられなくなったのだろうか。


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