【連載小説】「好きが言えない」#4 メイクアップ
自転車で家路を急ぐ。学校から離れるにつれ、私の頭の中は次第に「女子脳」へと変わっていった。
少し化粧もうまくできるようになってきたし、今日はこっそり家を抜け出して、夜の散歩でもしてみようか。コンビニくらい、行ってみてもいい。
店員は私をどんなふうに見るだろう? 年相応の女子高生とみる? それとも、大学生に見えちゃったりして? 化粧をしたら、専門学校生の奈々ちゃんつまり、十九歳くらいに見えなくもない。想像するだけでわくわくした。
両親とも正社員で働いていて、早くても帰宅は七時過ぎ。私は二学期になってから、親が帰宅するまでの数時間を、化粧の練習やファッション雑誌に目を通す時間にあてていた。
もちろん、部活をしていた時同様、夕食の支度はしておく。だからおそらく、母でさえも私がこんな日々を過ごしていることに気づいていない。
帰宅するなり、私はふんわり袖のブラウスとショートパンツに着替え、さっそくメイクの練習を始めた。
始めたばかりのころは、アイラインを引いたり、ビューラーでまつ毛を上げるのにもかなりの時間を要したが、二週間も練習したらかなり早くできるようになった。仕上がりもきれいだ。二十分ほどで素敵な「お姉さん」の顔になった。
そのあとは、メイクして美しくなった自分を洗面所の鏡に映していつまでも眺めていた。
――本当に私なの?
野球に明け暮れていた私なの?
そうよ、そうなのよ! 私は生まれ変わったのよ!――
時計は五時半を過ぎたあたり。まだ時間はある。
せっかく化粧をしたのだから、外に出てみたい。
誰でもいい、見てもらいたい。そして振り向いてほしい。そんな衝動にかられた。
私は部屋を飛び出し、意気揚々とマンションのエレベーターで階下へ降りると、近所をぐるりと歩いてみることにした。
小さな公園。クリーニング店、喫茶店、美容室……。もう十五年近く見てきた景色なのに、どことなくキラキラと輝いて見えた。空気まで澄んでいる気がする。
大手を振って歩いていると、向こうから同じマンションに住む「おしゃべりなおばさん」が買い物袋を持ってこちらにやってくるのが見えた。
挨拶をすると、初対面に思われたのか、会釈で返された。しかし数秒後に「……春山詩乃ちゃん?」と振り返られた。
「はい、そうです」
「まぁ、お化粧してたからすぐには気が付かなかったわ。いつのまにかきれいになっちゃって。ついこの間まで男の子たちと外で遊んでたのにねぇ」
「そうですね……」
やはり私は「男子と一緒に遊んでいる」印象らしい。
「これからお出かけ? もしかして、デート? いいわねぇ」
おばさんはやたら嬉しそうにそういって帰っていった。
デートではないけれど、作戦成功。顔見知りのおばさんに化粧をほめられた。ものすごく気分がいい。
公園から帰宅を促す音楽が流れる。午後六時。そろそろ家に戻って化粧を落としたり、夕食を作ったりしなければならない時刻だ。
私は、ちょっとモデル気どりで腰をくねらせながらエレベーターホールに向かった。足を交差させて立ち、エレベーターが一階に降りてくるのを待つ。
普段は待つのが嫌で階段を使うことも多いが、慣れないサンダルで五階まで上りたくはない。
エレベーターが到着した。一人だったし、ちょっと急いでいたから「閉まる」ボタンを押そうとした。そのとき、「乗ります!」と飛び乗ってきた人物がいた。慌てて「開く」ボタンに指を伸ばして押し、その人を乗せてあげた。
「ありがとうございます」
汗だくの男子高校生は礼を言い、四階のボタンを押すと暑そうにシャツの胸元をひらひらさせた。
私はぎょっとし、できるだけ彼から離れて立った。そして、顔を伏せた。心臓の音が聞こえているのではないかというくらい、ドキドキしていた。
――祐輔。なんでこの時間に帰ってくるの? 普段なら今頃部活が終わって学校を出るはずじゃない?
慌てて飛び乗ったとはいえ、彼は化粧をした私に全く気付いていない様子だ。こちらを見る気配もない。
声を掛けようか。「私よ。どう、きれいでしょう?」って。けれど、何も言えなかった。
彼は四階で降りた。一度も振り返らない。そのまま、エレベーターのドアは閉まった。
五階の自宅に着き、私は深く息を吐いた。
――どうして普段通りに声を掛けられなかったのだろう?
喧嘩中だから? 違う。正直言って、見られたくなかった。祐輔にだけは。きれいになったのだからしっかり見てもらえばいいのに、なぜこんな気持ちになるのだろう?
玄関には相変わらず、ぴかぴかに磨かれたトロフィーが置かれている。
父はどんな思いで私に野球をさせたのだろう。そして今、こんな私を見たらなんていうだろう?
急に息苦しくなる。さっき、祐輔と二人きりでエレベーターに乗っていた時と同じ。
私は急いで洗面所に行き、メイクを落とし始めた。
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