【連載】チェスの神様 第三章 #10 別れ
家が見える角を曲がる。ほっとしたのもつかの間、家の門の前でしゃがみ込む男の姿に気づき、足を止める。やけに静まり返った通りに、私の靴の音が響いた。男は私たちに気づいて立ち上がり、足早に近づいてくる。
「早く終わったから会いに来てやったのに。何で電話に出ねぇんだよ、映璃」
悠だった。きっと部活が終わってすぐやってきたのだろう。外灯の陰になった顔はよく見えなかったけれど、彼はいらだった様子で手に持ったスマホをポケットにしまった。
「病院に行ってて電源を切ったままだったの。ごめんなさい」
スマホの存在を忘れるほどの出来事があったのだから無理もない。追撃されると覚悟したが、どうやら納得してくれたようだ。
「病院……。ってことは、結果が出たのか。それで?」
「先天的な病気で、治療のしようがないって。……子供は産めないって言われたわ」
「治療できないんじゃ、俺に手伝えることもないってことか……」
「……ねぇ、悠。もうこれ以上、こんな関係はやめよう。前にも言ったとおり、私はアキが好きなの。だから別れよう」
ひと思いに言った。今の言葉に、私の気持ちのすべてが集約されている。
悠は私の両肩をつかんだ。
「会えないのが寂しいって言うからこうして毎晩、会いに来てやってるんだ。それなのに別れようって、どうしてだよ? わっかんねぇよ!」
「じゃあ、こう言ったら分かる?」
頭に血が上った悠のペースにはまってはいけない。私はあえて冷淡な口調で言う。
「悠のまっすぐな愛情を、私の小さくてゆがんだ器では受け容れきれなかった。最後には溢れ、それでもなお注がれて苦しかったの……。
悠は私との距離を一気に縮めようとしすぎた。強引に、快楽で私を惹きつけようとした。でも……。そんなやり方で心を開くことはできないわ……」
「野上はそうじゃないって言いたいのかよ?」
「そうよ」
「はぁ……? なんだよ、それ……」
「見栄っ張りよね、私たちって。美男美女カップルだなんて言われていい気になって、周囲に見せつけることに心地よさを感じていたんだもの。だけど、疲れちゃった。それに……」
「それに、なんだよ……?」
「アキに私を奪われるなんて格好悪いから、強がって必死につなぎとめようとしてたでしょう? それが一番、嫌だった」
「それは……」
悠は続きを言うことができなかった。
「悠のこと、嫌いになったわけじゃないの。恋人として付き合うことはできないってだけ。だからこれからは友達として、しゃべったり笑ったり。そういう関係じゃダメかな?」
「……俺と映璃とじゃ、恋愛観が違った。結局は分かり合えなかった、ってことか」
悠はふうっと長い息を吐いた。
「映璃のこと、もっと知りたかった。もっと心を許してほしかったな」
「ごめん……」
「まぁ、焦りすぎたのは認める。それでたくさん傷つけちゃったんだとしたら謝るよ」
「私もたくさん傷つけた……。ごめんね……」
「おっと、泣くなよ? おまえは笑ってるほうがずっとかわいいんだから」
いつもの強引さで、悠は私の髪をくしゃくしゃっと撫でまわし、顔を覗き込んだ。
「って言うか、泣いた跡があるし。野上、映璃のこと泣かせただろう?」
「ああ、泣かせた」
私が勝手に泣いたのに、アキはそう言った。そして、何も言うなというように手で制し、悠の前に進み出た。悠も一歩前へ出る。
「女を泣かせるやつは大嫌いなんだよ。映璃との別れは納得したけど、おまえとは付き合わせたくねぇな」
「なら、僕とエリーが付き合ってもいいって思えるまで話し合おうよ。鈴宮に認めてもらえないうちは、僕だって堂々と付き合えないからね」
「へぇ。そんな度胸がついたか。オーケー、話そうじゃねぇか」
「ちょっと、二人とも……」
「映璃は家に入ってな。ここからは俺たちの闘いだ」
行こうぜ。
悠が促し、アキはそのあとに続く。自転車に乗った二人の姿はあっという間に見えなくなった。宵闇が、一人きりになった私を包む。
男の子たちが最後の闘いをするなら、残された私にできるのは自分自身と闘うことだ。二人に愛されたことで得たものがある。だったらここで立ち止まってはいけない。それを糧に、私は私の足で前に進んでいくのだ。与えられた生を、今を生きるために。
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