完全に絵踏みをナメていた。
今日私は推し(仮称)に背いた。
江戸時代、禁じられていたキリスト教を隠れて信仰している人間を発見するために行われたのが絵踏みだ。ルールに逆らってキリストの姿が彫られた板を踏まなかった民は強制的な改宗を求められ、ときには処刑されるらしい。
「そんなの、別に『ちょっとごめん!』って感じで踏んじゃえばいいのに〜」
と思っていた。
食卓での出来事だ。テレビを点けていた。近頃はどんなチャンネルも総集編をやっている。
1分ほどの推しの出演シーンを内心ウキウキして観ていると、
家族から「この人実は乱暴そう」だの「ちょっと怖い」だの
何の根拠もない、勝手なイメージの心ない言葉が出る。
(家族は別にアンチとかではなく、実際昨日の深夜番組で「この曲カッコいいね!」とか言ってた。何その掌返し)
それに対して
は???何言ってんの神様だよ神様
だとか
嘘でもそんなこと言うな!
などと抗議しようとは思っていなかったし、人それぞれ感じ方に違いはあるだろうと考えていた。のだが。
あろうことか、私は
「あーわかる」
などと口走っていた。推しを家族に隠していたわけでもなく、大っぴらにしていたわけでもない。何の感慨もなくただその場のノリで言ってしまった。一瞬遅れて血の気がさーっと引いた。
まさしく、今日私は絵踏みをしたのだ。
別に本心じゃなく、何も考えてなかったし、闇が深いのは事実だ。(と言い切れるほど推しのことを深く知らないのも事実だが。)
それに一瞬のことだ。側で話を聞いていた誰もが覚えていないだろう。
しかし、前述の通り、絵踏みを軽視していた私は一時的に教えに背くことがこんなにも自分を追い詰めるとは微塵も思っていなかった。
「ちょっとごめん!」で信じる神を足で踏みつけて、生き残ってしまったキリシタンたちは何を思ったのだろう。
信じる神を踏みつけた自分を「裏切り者の背信者だ」と言って罰してくれる者はいないだろう。生き残った者こそが皆教えに背いた者たちなのだ。
いくら許しを乞うても教えに背いた信者に救いの道は無い。
うっかり推しをディスった私にも、彼らの存在は光を与え続ける。
そんな彼らを推し続ける資格が私にはあるのか。
今は懺悔のためにこの文章を書いている。償いになど到底ならない。
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