寝ながら書きました

推しの呼称が揺らぎまくっている。

頭の中では好き勝手に呼ぶ。
問題は、
"何らかのタイミングで推しを紹介する場面における推しの呼称"
である。

巷でよく聞く"推しプレゼン"の機会には恵まれない寂しいオタクだが、求められれば的確に、かつ相手のペースに合った円滑なプレゼンができるように準備したい。だが呼称で行き詰まる。

というのも、
自分が発するどんな呼び方も、推しを言い表すのに不足しているように感じるためだ。
もちろん推しの名前の文字列は美しく、耳にすれば5分は踊っていられよう。あまりのときめきに自分で文字を入力するのさえ躊躇して、検索エンジンのサジェストに縋っている始末だ。

だからこそ自分で口にするにはいろいろと考えてしまう。
"(名字)さん"なんてお前はいつから仕事仲間のつもりだ?って感じだし、
"(名字)くん"なんて呼ぶのは推しの先輩や同級生とかで、少なくともお前には許されてないよな?って感じだし、
呼び捨てはネタにしても失礼なんじゃないか?と思うし、テレビのテロップやナレーションにさえモヤモヤしてしまう時もある。ごめんなさい。

親しげに呼びかけても、遠巻きに呼びかけても、どう呼んでもしっくりこない感があるというか、自分と推しとの距離感がつかめていないだけなのだが。

あえて一般人や新参に馴染みの深い呼び方をせず、かと言って他ファンと格の違いを見せつけたい古参の悪い例みたいな拗らせ方はしてないよっていう表明をしたい
というか。(結局拗らせててめちゃくちゃ)

極端なことを言ってしまえば名前は推しを表すものであって、推しそのものではないんだから、愛称なんてものは仲間内で通じる符号でしかないような気もする。暴論なのは分かっている。

ある時、
「同じアーティストを応援している同級生がいたが、その人の推しの愛称から仲良くするのを拒んだ」という話を聞いた。

愛称一つで仲良くするに値する人間かどうかを量られてしまうとは、と私は戦慄した。

ただ、その気持ちは分からなくないのも事実だ。呼び方が違うということは、推しの映り方がそれぞれ違うことを意味しているのかもしれない。
同じ呼び方をしている人は、推しを自分と限りなく同じ目線で見ていると考えると、前述の人物の行動は納得できる。愛称で相手を量ることは、オタク内での細分化されたコミュニティづくりにおいて不可欠なことなのかもしれない。

推しの呼称は、ファンが感じている推しとの距離と、推しを見つめる目線を表すものであると認識できた。多分。

まずは自分と推しの距離を知る修行に出かけたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?