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その感情の名前は



朝と昼の境の時間。
目が覚めては、眠りに誘われて瞼を閉じることを幾度も繰り返して、ようやく迎えた目覚めはなんだか気怠げな薄ぼんやりとした朝だった。
見慣れた景色の一部分が切り取られた窓の外を、ホテルのベッドから眺める朝は、まだ夢の中にいるように思えた。

曇り空の下、隣を歩く人と「秋みたいですね」と話しながら、ひんやりとした風が落ち葉をさらっていくのを眺めていた。
家を出るときに、桜の花びらが散るのを眺めていたはずなのに、時間を巻き戻したような景色だった。
見慣れた景色の中に、ここにいないはずの人が隣にいるのに、その人の隣を歩くことはこの一年で随分と慣れた。
昨晩も、仕事の帰りにお酒を飲んでいて。これが最後だと思うとお互いにいつもより雄弁になって、口にしてこなかったようなことをたくさん話した。

共にお酒を飲んだことは何度もあったけれど、昨晩のその人はわたしが知る限り一番酔っていて、たぶん少し泣いていた。
去っていく人たちを送り出すことには慣れているから、いつからか泣かなくなったとつい先程話していたのに。
いつも悠然としている人の弱っている面を見てしまうと、愛おしく思えてしまうのはわたしにも母性とかいうものがあるからなのだろうか。

気がつけば唇を奪われて、いつのまにか同じ夜の中にいた。
これまでは一定の距離感を保っていてくれたその人が、はじめて触れてきた。
結局、この人もという失望は一瞬だった。
尊敬していた人や父のように慕っていた人が結局はただの男であった、という経験はとうの昔に済ませていたし、それは一度や二度ではなかった。
ゼロにどれだけの数字をかけても、結局はゼロであるのと同じように。
いつからか、失望に慣れてしまっていた。


ただ、そこにあるものが薄汚い欲望だけではないのかもしれないと、はじめて思った。
だからこそ、受け入れられたのかもしれないし、最後まで軽蔑することなく終えられたのかもしれない。
行為中というのは、実は結構考え事に適している。甘やかな熱に浮かされるのは最初だけで、その人の腕の中でただ、思考していた。

感情に名前をつけることは難しいということ。
たとえば、わたしが愛と呼んだものが相手にとっても愛であるか、といえばそうでないこともある。
わたしがどれだけ愛だと思って相手に渡しているつもりでも、わたしの愛を相手は執着と受け取ることもある。
同じように、わたしが欲情でしかないと切り捨ててきたものも、相手からしたら愛を手渡そうとしてきたのかもしれない。
自分の感情に名前をつけることができるのは、自分だけなのだ。
他人の感情に名前をつけることなんて、できない。


いつも悠然と構えているその人は、自分は想いを伝えることに不器用なのだと語った。
小鳥が啄むような口づけを何度も落としながら、わたしの髪を撫でてきつく抱きしめるその人からは、どうしようもない寂しさと愛情めいたものを感じた。
「好きだったこと、気づいてた?」
と抱きしめたままに問うてきたその人の薄い胸板に頬を寄せながら、「知りませんよ」とだけ答えた。
酔っているとき、これまでも何度か伝えようとしていたことに気づかないふりをしていた。
だから、同じように知らないふりをする。

特別、大事にしてもらっていたことくらい知っている。
そこにどんな感情があるのかなんて、わたしは知らないし、その感情にわたしが名前をつけることなんてできない。
一番可愛がってもらっていたのに、その人のもとを去ることを選んだ。
与えてもらったものを少しは返したくて、せめてその人の寂しさに寄り添いたくて。
雨のように降りしきる口づけを瞼を閉じて受け入れた。

浅い眠りから目覚めるたびに、わたしを抱き寄せて確かめるように強く抱きしめていた。
線の細い体からは考えられないほどの強さで抱きしめられて、「ずっと離れたくないな」と聞こえないくらい小さな声で言ったその言葉は本心のように思えた。
愛し子が眠りにつくのを見守るように、腕の中で眠るわたしの髪を撫でつけて、時折口づけを落としながら、わたしのことを「かわいい人」と呼んだその人に、わたし自身も愛情めいたものを感じていた。


そこに確かなものなどなくても、その人の与えてくれたものを欲情と呼んで切り捨ててしまうことは、ひどく悲しいことのように思えた。
そのくらい、その人の眼差しは優しい熱を帯びていた。
恋人や家族に向けるものとは違くても、そこには愛情のようなものがあったと思えたほうが、わたし自身も救われる。


相手の感情に名前をつけることなんてできないけれど、それをどう受け取るかもまたわたし次第なのだから。
だから、きっとーー

それは愛情めいたもの。
それは寂しさを埋めるもの。
そしてそれは、きっと祈りのようなもの。