飛沫

今日、新卒で入社した会社を辞めた。

こんな時期に、という気もするが、敢えてこの時期を選んだわけじゃなくて。
たまたまこんなタイミングになってしまったというだけのことだ。

辞めることはこの会社に入ったときから決めていた。
元々、望んでいた仕事ではなかった。長くいるつもりのない場所だった。
だからだろうか。最後の出勤日。退勤の打刻をして、お世話になった人たちに挨拶をして。同期に退職祝いをしてもらっても、全然実感がなくて。
明日からもう顔を合わせることがない、という気がしなかった。
会社の人とはいえ、わたしの部署はいつも高校の教室みたいに賑やかだったし、くだらないことで大声で笑えるくらいに自由で伸び伸びとした部署だった。

理不尽なルールに同期と愚痴を言い合って、時には上司に食ってかかったことさえあった。
そんな日常の中にはもういられないということを、自ら去る道を選んだのに実感できずにいた。

同期がお祝いにと開けてくれたシャンパンの泡がパチパチと弾けるのを眺めながら、寂しさとか感慨深さとか、そういう気持ちとは少し離れた場所でいつものように笑う自分がいた。

少し早めに同期と別れて、電車を待っている間、思い出したようにお世話になった先輩にLINEを送った。
「色々とありがとう」なんてありきたりなお礼の言葉。
たった数文字だけど、その“色々”にはわたししか知らない気持ちが、文字通り色々詰まっている。

入社したばかりの頃、恋人と別れたばかりの傷ついたわたしに、弱いフリをしていたわたしに、優しくしてくれた人。
傷が癒えないままでいたわたしは、優しくしてくれたその人のことをたぶん、少しの間好きだった。
寂しい心の内を埋めてくれたその人に甘えて、ひとりでいたくない夜を、何度か一緒に越えてくれた。

会社の人は誰も知らないまま。
わたしたち自身も、お互いに忘れたというように振る舞っていたけれど。覚えてるよ。忘れたりなんてしない。

彼からLINEの返信が来て、他愛のないさよならの言葉に、はじめて涙が出た。

ああ、そうだった。
わたしの感情に熱を与えるのはいつだって、恋心だった。

どうしようもなく大きくて、手に負えない。
そういう感情。
恋心というやつは、いつも自分の手には負えない。

思い知ってしまった。
ほんの少しの間でも、彼を好きだったこと。もう会うことはきっとないということ。

寂しさで震える夜に、熱を与えてくれた人。
ふたりでいるときは、いつもの彼とはかけ離れたみたいな甘やかな声で名前を呼んでくれた。
細くしなやかな骨張った指先は、いつだって壊れ物を扱うように優しく触れてくれた。

綺麗に並べられた骨をなぞるように彼に触れた夜は、今でも熱が消えていない。

好きだったよ、ではない。
ただ、一言。
ありがとう、と言葉を贈った。

恋と自覚するまえに、自ら沈めた想いはずっとこの胸の内にある湖の底に沈んでいた。
彼の言葉や想いに触れるたび、時折静かに細波を立てたその想いに気づかないふりをして。

今度こそ、きっともう目覚めることのないその想いは、胸の奥底に沈んだままに眠り続ける。
まだ熱を残す思い出も、時が経つにつれて埋没していくのだろう。

愛おしい思い出を手放して、わたしたちは未来を選び取るのだから。

輪郭を持たなかった感情は、その形を成すことのないままに。

淡く抱いていた想いが、透明なグラスに注がれたシャンパンの泡のように、小さく飛沫を立てて、ぱちぱちと弾けて消えた。