「秀吉の一夜城」のごとく出現した「東京大塚のれん街」のスゴい話。~対談:下遠野亘 / 株式会社スパイスワークスHD 代表取締役社長(前編)
2018年5月、JR大塚駅北口に、星野リゾートのホテル「OMO5東京大塚」をオープンするにあたって同時完成を目指したのが、古民家の佇まいを活かして改築した居酒屋が集合するエリア「東京大塚のれん街」です。
プロジェクトは波乱に満ち、幾度となく挫折しかけましたが、ひとつの出会いによって僕は救われ、デザインから施工まで約2ヶ月、という異例のスピードで完成まで急展開します。
「東京大塚のれん街」は言わば“秀吉の一夜城”のごとく、突如大塚の街に出現しました。
僕を救った出会いの相手とは、株式会社スパイスワークスHD代表取締役社長、下遠野亘さん。彼の存在なしに、大塚駅北口の夜の賑わいを起こすことはできませんでした。
今回は、飲食店のデザイン、施工、そしてプロデュース、運営まで、「食」をまるごと極める下遠野さんのキャリアの形成について、その独自の仕事術について伺っていきます。
【下遠野亘さんプロフィール】
株式会社スパイスワークスホールディングス 代表取締役社長。1974年千葉県生まれ。設計施工会社でキャリアをスタート、1995年飲食業界へ移り、イタリアンやフレンチレストランで経験を積む。海外のレストランにも在籍し、様々なノウハウを吸収。帰国後の2006年に株式会社スパイスワークス設立。飲食業に特化した店舗リノベーションから、飲食店の運営、複数の店舗が集まった「横丁」の企画プロデュースなど行う。2018年に同社をホールディングス化。36業態、86店舗、2施設を展開する(2021年11月現在)。東京・大塚では2018年5月に開業した「東京大塚のれん街」を管理しつつ、直営店「スシエビス」、「酒肴北斎」を出店している。https://www.otsuka-norengai.com/
武藤 「下遠野さんは、建築系の学校卒業後に設計施工会社に入社してキャリアをスタートされたそうですが、当初建築の道を志されたきっかけはありましたか?」
下遠野 「僕は千葉・船橋の出身で、都会ではないので実家では兄弟に一人一部屋をもらえていたんですね。親父が美術の教師だったので、壁に何か貼ったり色を塗ったり、絵を描いたりというのが当たり前。高校生の時には左官もできて自室の壁を塗ったりしていましたね」
武藤 「子どもの頃から、自分の手で空間づくりをされていたんですね」
下遠野 「友だちが遊びに来るとよく部屋に飾り付けをして、それをすごく喜んでもらえたのが嬉しくて…、自然とこの世界に入っていった感じです。今も、モノ作りだけじゃなくプロジェクトを作ったり、システムを作ったりするのが楽しいのは、そのころの経験が原点かなと思います」
武藤 「そこからさらに飲食業まで手がけるようになったのは、どうしてだったのですか?」
下遠野 「就職先の最初の仕事が、新宿の某ビルの仕事だったんです。ビルの中に色々な飲食店が入っていたんですけど、僕は入社して一年目でいきなり蕎麦屋の担当に配属させられて…。そば打ちする人のための部屋を作らなきゃいけないのに、そば打ちについて何も知らない。広さも取り回しの動線も、何が肝心なのかぜんぜん分からなくて悲しくなりました」
武藤 「仕事は現場で覚えろ、というスタイルですね。とはいえ、分からないままってしんどいですよね」
下遠野 「はい。そんな状態なのに、バブルがはじけて間もない時期だったのでまだ景気が良くて、仕事はバンバンある。で、ドンドン現場をやらされるんですけど、「やらされてる」っていう言葉になっちゃうんですよ。嫌で嫌でしょうがなくて会社を辞めました」
武藤 「その後設計事務所とかではなくて飲食業界に飛び込んじゃうっていうのが、下遠野さんらしいというか(笑)」
下遠野 「受注する立場として、美容室とか物販とかどれもこれもやっていたら、施主さまが本当に望む絵は描けないと思って。思い切って飲食業の世界に入らせてもらって、「食」そのものを理解して極めようと決意したんです。だから僕は、設計・施工、運営も飲食が強いです」
武藤 「オールジャンルではなく、これは自分の強みといえる分野をつくることに力を注がれたんですね」
下遠野 「そうですね、おかげで飲食やスナック、なぜかホストクラブやキャバクラまでいろいろやらせてもらいました。望んだ仕事をやらせてもらえるようになっていったのも、今考えると、最初のそのお蕎麦屋さんの強烈なインパクトがあったからです。もう、大将がめっちゃ怖かったんですよ。そんなことも知らねえのか!と(笑)」
武藤 「若い頃のそういう経験、忘れられないですよね(笑)。ちなみにそのお蕎麦屋さんは形になったんですか?」
下遠野 「ええ、一所懸命やったのでなんとか。この仕事で、この世界は甘くないと深く刻み込まれて・・・それでこの道を極めようという覚悟ができたんです」
武藤「そうだったんですね」
下遠野 「そんな経験をふまえて、今は“店舗設計・施工の教科書”を作っています。新入社員でもすぐ店を作ることができるように、例えば「階段」というキーワードをクリックすると、蹴上(けあげ)の高さはどうする、とか、間接照明を入れる、とか。備忘録、チェック項目などがすべて網羅されているんです。「トイレ」も今年の流れはこれ、「和」はこれって決まっている。僕らの“デザインの方程式”を作っているんです。昔も教科書があれば良かったんですけれど(苦笑)」
武藤 「初めて聞きました。僕も今、「識学」という組織運営理論を学んだりしてるのですが、それに近いかもしれない。教科書作るのはすごく手間がかかりますよね、すごいです!」
下遠野 「手間はかかりますが、一回やっておくとめちゃくちゃ楽なんです。店のデザインを僕がやれば120点取れますけど、誰がやっても確実に点数が取れるっていうようにしておくとクライアントさんから怒られないで済みます(笑)」
武藤 「組織が大きくなっていく過程では、すごく大事なことですね。飲食店設計は、年に何軒くらい手がけているんですか?」
下遠野 「これまでの通算で2000軒を超えました。現在は年/200軒くらいですね。デザインだけですけれど」
武藤 「そんなにやっているんだ、2日に一軒!(笑)。2000軒以上も手がけた中で、とくに記憶に残っている仕事は何ですか?」
下遠野 「記憶があるのは辛い経験ばかりです。なかでも「渋谷肉横丁」と「ハマ横丁」のときはものすごく大変でしたね。時期がずれ込んで二つの横丁を6月と8月と続けてオープンさせなくてはならず多忙を極めたうえ、社員が辞めに辞めて、僕を入れて4人しかいなくなったんです。他の現場もあったのを、ほぼ一人で切り回しました」
武藤 「なんと。災難って重なりますよね…」
下遠野 「さらに、たくさんのテナントが入るような大規模ビルの店を当時はまだ経験したことがなかったのですが、消防法の申請も店の平米数が大きくなるとすごく複雑で。関係機関へ提出する書類だけでも相当な厚みで、スプリンクラーひとつ変える申請だけでも大変でした」
武藤 「それはいつ頃の話ですか?」
下遠野 「2010年頃でしたかね、辛かったですねえ。でも、これもまたすごく大きな経験になったんです。乗り切った、やりきった、できるじゃない、って。現場で想定外のことが起こっても、乗り越えられるという自信になりました」
武藤 「まさにここ「東京大塚のれん街」でもその力を発揮していただきました」
下遠野 「現場で工事していたら、電気が足りなくなったんですよね」
武藤 「はい。当時、スパイスワークスの現場責任者さん(以下、「ス」)と、こんなやり取りがありました」
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ス「武藤さん大変です!電気が足りません!豊島区長に電気の容量増やすよう連絡してもらえませんか?!」
武「いやいや、それはさすがに無理でしょう」
ス「分かりました、では隣の駐車場、借りてもいいですか?」
武「いいですけど…どうしたんですか?」
ス「そこで発電します!」
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武藤 「って、発電機を焚いてました(笑)」
下遠野 「エンジン発電機持って来て、その場でね。電気が足りなければ、作ればいい、っていう発想です(笑)」
武藤 「それをやっちゃう会社さん、普通いないですよね。プロジェクトをやり遂げるために、必死に道を模索する姿に心を打たれました」
次回は、対談の後編。「東京大塚のれん街」が誕生した経緯を振り返りつつ、これからの大塚について語ります。
大塚のまちをカラフルに、ユニークに
大塚が変わるプロジェクト「ironowa ba project(いろのわ・ビーエー・プロジェクト)とは?(▼)
編集協力:平マキ(アプリコ・インターナショナル)