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「うつ」から社会復帰。居場所を求めて山口不動産へ

世間で幸せとされる「正解」を出し続けていただけだった。

うまくいっている人生だったはずがうつを患い、当時勤めていた監査法人を休職。正解を追い求めて競争に勝ち続けているだけで、「自分はこうしたい・こうありたい」という自らの心に問うことをしてこなかったーー。
そんな、人生で初めて経験した挫折について前回書きました。

今回は、半年休職したあとに復職するも、会社に居場所がなく母方の家業である山口不動産へ入社した経緯について。

うつが再発する恐怖を抱えながら、なんとかして社内で自分のポジションを見つけようとあがいていた日々を振り返ります。

居場所がなかったから、家業の社員として入社

半年の休職を経て、勤めていた監査法人に時短勤務から復帰しました。「うつから復職した社員」として、周囲は僕にとても気を遣ってくれました。

いたわってもらえるのは有難かったのですが、職場で気を遣われる存在でいるのは、挫折を経験したことのなかった僕にとって決して居心地のいいものではありませんでした。

そんなある日のこと。祖母から、山口不動産の当時の番頭さんが末期がんになり人手が足りなくなったとの連絡をもらい、入社を打診されたのです。

会社に居づらかった僕にとって、ちょうど良いタイミングで山口不動産に入社できる道が開かれた格好ですが、その一方で、これまで歩み続けてきた道から外れることへの葛藤もありました。

「正解を出し続けていただけ」とはいえ、大手監査法人で公認会計士として働く自分は、これまで積み重ねてきた努力の結晶でもあります。そんな自分とキッパリ決別するのは、容易なことではありませんでした。

加えて、僕が将来山口不動産を引き継ぐことは、祖母との2人きりの約束でしたから、僕の両親にとっても寝耳に水の話でした。

当時の山口不動産は、ほかの街にもよくあるような、ただ不動産を保有して賃料収入を得るだけの会社。親にしてみれば「会計士としてのキャリアを捨ててまで進むべき道ではない」というのが本音だったと思います。

思い悩みましたが、このタイミングを逃したら、祖母との約束が果たされることはもうないのかもしれないーー。

最後はそんな気持ちに背中を押されて、僕は山口不動産の社員になりました。2008年初めのことです。

「家業を継ぐために」と意気込んだが…実際はたばこ自販機の交換業務。。

ようやく、子どもの時から思い描き続けた仕事のスタートラインに立てたーー。

期待を胸に入社したものの、当時のポジションは月給25万円の平社員でした(僕が勘違いしないようにとの祖母の考えだったようです)。

うつを患って休んでいたわけなので仕事を得られただけで有難いのですが、会計士として毎日忙しく働き、それなりに稼いでいた身としては複雑でした。

番頭さんから引き継いだ主な業務は、簡単な不動産管理と、毎月の請求書発行と送付。さらに、週に3日出社していた祖母を送迎するための運転手、アナログだった社内システムのデジタル化でした。

もうひとつよく覚えているのは、自社で管理しているたばこの自動販売機10台近くの集金とたばこの補充業務です。これを毎日やっていると、100以上あるたばこの銘柄や種類を、自然と覚えていきます。

自販機の入替作業が始まると数分間たばこが買えなくなるため、ちょうどその時間に買いに来たお客さまから「お兄ちゃん、ちょっと待って待って! マイセン(マイルドセブン)ちょうだい〜!」と小間使いのように扱われることは少なくなくありませんでした。僕も調子よく「はいはい〜!」なんて返す。

これが僕の仕事でした。定時内で十分終わりますから、毎日5時ぴったりに退社していました。

当時は、祖母が社長、叔父が専務、僕が平社員というポジションでしたから、社内の既存ルールをひとつ変えるにも、祖母だけでなく叔父にも判断を仰がなければなりません。

月に数回しか出社しない叔父をやっと捕まえても、提案を頭ごなしに却下されることがほとんど。焦りともどかしさを感じました。

入社前に抱いていた僕の理想とは程遠い日常から気を紛らわそうと、友人との飲み会に参加したりもしました。

でも、有名企業でバリバリ働いていたり、起業して次のステップに進もうとしている友人たちの前で、誇らしく語れることは何もありません。虚しさが募る一方でした。

僕の人生、どうなってしまうんだろう?

山口不動産の経営だけを考えると、代々引き継いできた不動産からの定期的な家賃収入があり、家業を漫然と手伝うだけでも、もしかしたらお気楽に暮らしていけるかもしれませんでした。

でも、うつを患った根っこにあったであろう、自分の人生や先行きへの漠然とした不安は放置されたままでした。

このままではいけない。

来ようとすら思われないまち「大塚」と、誰からも本気で求められていない「自分」とを重ねていました。

祖母が次の社長に選んだのは?

うつが再発する恐怖に怯えながらも、僕に会社を任せたいと言ってくれていた祖母との約束を実現するため、社内で自分の立場をいかにして確立していくか。まずは平社員の立場から発言力を高めるべく、色々考えて、少しずつ動き始めました。

状況が大きく変化したのは、会社の今後を考えて、中小企業の事業承継を支援する「経営承継円滑化法」を採用してスムーズに代替わりを進めよう、と社内で決まったときでした。

ここで次期社長を選ぶことを迫られた祖母の決断は、代表権を娘(僕の母)に譲るというものでした(2011年)。

この時点では祖母も、自分の息子である叔父を差し置いて僕を社長にすることには逡巡があったのでしょう。お茶を濁したと言ってもいいのかもしれません。

僕を社長に指名してくれるかも? と淡い期待を抱いていたところはありましたから肩透かしではあったものの、このタイミングで叔父が代表権のない会長となり、僕が取締役に昇格したことは大きかったです。

これをきっかけに、僕は徐々に会社の意思決定にかかわれるようになっていきました。社内組織の入れ替えや、山口不動産の土地の立ち退き調整や折衝、所有する土地をどう再開発していくか……etc。

あらゆることが初めての連続でしたが、マイナーな駅の単なる不動産賃貸会社の1つに甘んじていたくない、という気持ちに突き動かされるように、次第に前向きに仕事に臨むようになっていきました。

まさに、星野リゾートを大塚に誘致するアイデアを思いつき、新築ビル(現在のba01やba03)建設や星野リゾートとの商談を進めていたころのことです。

そんなさなか、「この人がいてくれなかったら、いまの山口不動産、そして大塚は絶対にない」と断言できる、僕にとっての大恩人、超重要なキーパーソンKさんと出会うことになります。

次回に続きます。

大塚のまちをカラフルに、ユニークに

大塚が変わるプロジェクト「ironowa ba project(いろのわ・ビーエー・プロジェクト)とは?(▼)


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