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「祖母との約束」と「うつ」。“幸せそう”と思われる人生を歩んでいた

「大塚に住んでるの? スゲェじゃん!」

こう言われたいという僕の根源的願望からスタートしたのが、大塚のまちを変革するプロジェクト「ironowa ba project(いろのわ・ビーエー・プロジェクト)」です。

JR山手線の停車駅でありながら、お隣の駅である池袋や巣鴨に比べても圧倒的に印象が薄い、大塚というまち。

そんな大塚をイメージごと変えようと立ち上げたironowa ba projectの全体像と、その原点について、1話目で説明しました。

今でこそ夢中になれるこの仕事に出会えた僕ですが、ここに至るまでの人生は、決して順風満帆ではありませんでした。

今回は、人生で初めて経験した挫折のこと、僕の人生はこんなはずじゃない……と漠然とした不安を感じながらも踏み出せずにいた日々のことを、ありのままに書いてみます。

外孫に期待してくれていた祖母であり先々代社長

2018年に“武藤”姓である僕が、母方の家業である“山口”不動産を継いで社長になったのは、母方の祖母との約束があったことが大きく関係しています。

祖母は、親族内では「大ママ」と呼ばれる女帝のような存在でした。僕が生まれた頃から、会社を率いて様々な事業を手掛ける5代目社長で、幼き僕にとってちょっとした憧れの存在でした。

そんな祖母は、外孫でありながら初孫である僕に幼いときから期待してくれていて、2人でいるときには事あるごとに、僕に会社を任せたいと言ってくれていました。

一方で、祖母の息子であり僕にとっての叔父は、派手好きでよく遊ぶ人でした。そんな叔父に会社を継がせることに祖母が早いうちから難色を示していたことも、実の息子を飛び越えて外孫に目が向いた理由としてあったと思います。

その期待に応えたくて勉強を始めました。ゴールが明確で一定のルール内で結果を出すことが求められる受験は、自分の資質に合っていたのか、中学受験を経て武蔵中学、高校へと進み、東大へ入りました。

東大を卒業し新卒でメガバンクへ入行、辞めた後は公認会計士の資格を取得して大手監査法人へ。そんな経歴を周囲は「すごいね!」と言ってくれたりもしました。

27歳で、当時付き合っていた女性と結婚をしました。

周囲からは、順風満帆だと言われました。仕事もプライベートも、充実しているね、と。

僕自身も、そんな生活を謳歌していました。

……つもりでした。

ある朝目覚めると、ベッドから起き上がれなくなりました。

「うつ」になったんです。

世間で幸せとされる「正解」を出し続けていた

うつの初期症状が出始めたのは、2007年2月のこと。うつが、まだあまり世の中に認知されていなかったころです。僕自身もうつに関する知識はほとんどなく、うつになる=弱いヤツとの偏見がありました。

それまでの僕は、仕事の飲み込みも比較的早く、クライアントの意を汲むことも自然と出来ました。職場では、それなりにうまくやっていたと思います。

それがいつの日からか、頭には常に厚い「まく」がかかっているような状態に。無理を押して会社に行っても、人前で言葉ひとつ発するにも詰まってしまう。明らかにこれまでと違う僕の様子を、クライアントからも心配されてしまう有り様でした。

これまで当たり前に出来ていたことが出来ないもどかしさ。自己イメージからどんどん遠ざかっていく自分への嫌悪感。

ついには周囲から促され、休職を余儀なくされました。「あんな明るいヤツが、うつに?」と、会社の同僚や先輩たちは驚いていました。

この時点では、僕自身も「まだ全然できるのに、なぜ休まなきゃいけないんだ?」と思い込むくらい、もはや周りが見えなくなっていました。

休職してからも症状は進行し、しばらくすると、起きていても横になっていても「死にたい」感情が襲ってくるようになっていました。

20代後半の僕に訪れた、初めての挫折でした。

・結婚して生活環境が変わったこと
・監査法人で担当していた企業の粉飾決算を見抜けなかったこと
・会計士補から公認会計士になるための三次試験を控えていたこと

振り返ってみれば、当時は様々なことが重なってプレッシャーを感じていた時期だったのかもしれません。

でも、最も大きな要因は別のところにありました。

本当は、もっとずっと前から、自分の人生を楽しめてなんかいなかったんじゃないか?

それまでの僕は、世間で幸せとされる「正解」を出し続けていただけでした。

東大へ行き、メガバンクの銀行員になり、会計士になったのは、ただ競争を勝ち抜いてきただけ。

祖母と交わした約束はずっと頭にあったものの、家業に関して具体的に何かをしているわけでも、選んだ仕事に熱中しているわけでもありませんでした。

熱中するものが無いから、周りが向けてくる「東大卒の人間を見る目」に敏感に反応してしまう。仕事がデキると「さすが東大くん!」と揶揄され、デキないと「東大のくせにそんなことも出来ないの?」となじられる。

どっちも嫌だったから、悪目立ちしないように、ミスをしでかさないように、恐らく可もなく不可もないレベルの仕事をしていました。

要領の良さを活かした、“うまくいっているふう”の生き方でした。

中学・大学受験や、資格試験。誰もが認める結果を出した瞬間、大きな喜びや達成感はありました。一方で、やり切った直後から「次は一体何をしたらいいんだろう?」という、うっすらとした不安が芽生えるんです。

ただ正解を追い求め続けるばかりで、「自分はこうしたい」「自分はこうありたい」という感情と正面から向き合うことを避けてきたせいかなと、いまは思えます。

次回に続きます。

大塚のまちをカラフルに、ユニークに

大塚が変わるプロジェクト「ironowa ba project(いろのわ・ビーエー・プロジェクト)とは?(▼)

編集協力/コルクラボギルド(文・平山ゆりの、編集・頼母木俊輔)

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