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SS【天国と地獄の綱引き】

ここは天国と地獄の境界線。

お互いの世界は、昔から永遠に晴れないと言い伝えられている濃い霧で目隠しされ拝むことはできない。

自由に行き来することもできない。

はるか昔から、声さえも届かない巨大な見えない壁がそこにはあった。



この境界線では年に一度だけ、天国と地獄それぞれの住人が参加するイベントが開かれる。

天国と地獄の綱引きである。

ルールは相手側の人間を一人でも自分たちの陣地に引っ張り込めれば終了。


その日の早朝になると、毎年同じ場所に巨大なロープが姿をあらわす。

正午になるとバーーン! という鐘の音が鳴る。それが開始の合図だ。


ロープとロープを握る人は、なぜか見えない壁の影響を受けない。

ロープを握ったまま相手側の陣地、すなわち見えない壁の向こう側へ引っ張り込まれると、もう二度と戻ることはできないと噂されていた。


ただ、このイベントに対する両者の考え方はまったく違っていた。

天国側の人たちは見えない壁の向こう側が地獄であると知っていて、地獄の住人を一人でも救いたい一心でロープを引く。


地獄側の人たちは見えない壁の向こう側が天国とは知らず、別の地獄だと信じていた。

彼らはロープで相手側の人間を引っ張り込み、壁の向こう側の情報を得ようと考えていた。


辺境の地で毎年行われるこの小さなイベントは、天国側が負けたことは一度も無い。

それもそのはず、天国側の人たちはロープが現れるとみんなで協力してロープの後ろを巨大な岩に結んだ。

巨大な岩もみんなで協力して少しずつ運んできたものだ。


地獄側の立場の強い者たちは、得体の知れない世界に引っ張り込まれないように、ロープの先頭の方に立場の弱い者や体力のない者を強制的に配置し、後方は力自慢でかためた。

より悪くてズル賢い連中は綱引きに参加することもなく、その様子を見ながら罵声を浴びせたり、ある者は酒を飲みながらどちらが勝つか賭けをしていた。


正午の鐘がけたたましく鳴り響き、地獄側の先頭にいた恵理子(えりこ)は覚悟を決めていた。

毎年、先頭でロープを引く人間が得体の知れない世界へ引きずり込まれると聞いていたからだ。


ただ恵理子には失うものが何も無かった。

十五年前、恵理子は生活苦と人間関係に絶望し、心を病んだ末、ビルの屋上から飛び降り自殺した。

その時に三歳の一人娘を巻き添えにしてしまったのだ。

名前は水菜(みずな)。生きていれば今年で十八。

恵理子はこちらに来てから十五年間ずっと悔やみ続けたが、娘の行方は知れず、会うことはかなわなかった。


どんなに病んでも、周りに味方が誰も居なくても、大切な一人娘を自分の手で死なせてしまった現実は変えれない。

その結果が今の状況を引き寄せたというなら受け入れるしかない。

恵理子はそう覚悟していた。

ただ、もしもたった一つだけ、わがままを聞き入れられるとするなら、水菜が今どこでどうしているのか知りたいと強く強く願っていた。

恵理子は十五年もの間、来る日も来る日も水菜を探してさまよい続けた。

別の世界に引っ張り込まれても、それは変わらないだろう。


辺境の地に、バーーン! と正午を知らせる鐘の音が鳴り響いた。

ロープはピンと張ったまま動かない。

地獄側ではギャラリーの罵声や奇声が飛びかい、中には必死にロープを引く人に酒の瓶を投げつける者もいた。

綱引きは今年も長期戦になった。一分、二分と時間が経つにつれ、じわりじわりとロープは天国側に動いていく。


先頭の恵理子は得体の知れない壁の向こう側の世界に引きずり込まれていく。

恵理子はあまりの恐怖でロープにしがみついたまま目を閉じ、しゃがみこんでしまった。

次の瞬間、つい先ほどまで聞こえていた罵声や奇声は嘘のように消え去り、代わりに歓声が恵理子を包んだ。


恐る恐るまぶたを開けると、眩い光の世界がそこにはあった。

ずっと薄暗い世界に居た恵理子には、始めは眩しくて周りが見えなかったが、次第に目が慣れ始める。

恵理子を囲む人たちの姿と、その後ろに広がる広大な美しい山々が見えた。

青い空に真っ白な雲、そこから伸びる虹の橋。

「大丈夫? 立てる?」

恵理子の前に立っていた若い女がそう言って手を差し伸べてきた。

恵理子が手を伸ばすと、女はギュッと手を握り引っ張って、恵理子の両脇にいた男たちが恵理子の背中を支えた。


立ち上がった恵理子は「ここは?」と覇気のないかすれた声で聞いた。

「ここはみんなの故郷よ。人生を終えた人が帰ってくる場所。そしてまたいつか旅立っていく」

目の前に立つ若い女は恵理子の手を両手でギュッと握って離さない。

その目からは涙がこぼれていた。


「私が誰だか分かる?」


恵理子は彼女の顔をあらためてジッと見てハッとした。

「水菜! 水菜なの?」

「そうだよお母さん! お母さんだけ暗い所へ行ったから、私ずっと心配で・・・・・・。」


恵理子は苦しみぬいた人生と、悔やみ続けた地獄での生活を走馬灯のようにふり返った。

そして思いがけぬ立派に成長した水菜との再会に、十数年ぶりの笑顔が戻っていた。








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