SS【タブー】
この世界で生きていると、助言をしてくれたり相談にのってくれる人がたまに現れる。
直接言葉をかけてこなくても、自らの行動やSNSでの発信という形で伝えている人もいる。
先生、インフルエンサー、占い師。
時には仕事もせずに公園でボーッとしているおじさんだったり、近所の百歳近いお婆ちゃんだったりもする。
しかし、ほとんどの人は知らない。
忘れているだけで、夢の世界にいる時にも助言は受けている。
助言を誰に受けたかも、何を聞いたかも起きたと同時に忘れてしまう。
ただそれらは完全に消去されたわけではなく、断片的には残っているのだ。
そのかすかに残った断片的な記憶をつなぎ合わせることで、人は人生の舵取りをしている。
ぼくはその断片的な記憶が、他の人よりも鮮明に残っている。
助言者が誰かも、どんな顔をしているかも知っている。
ぼくの夢の中の助言者は、くるみという名のお婆ちゃんだ。
お婆ちゃんといっても、夢の世界では、あの世と同じで姿形は自由に変えられる。
たまたまお婆ちゃんの設定という感じだ。
お婆ちゃんの話では、大昔にぼくの奥さんだったこともあるらしい。
ぼくはまったく覚えていないけど・・・・・・。
そのお婆ちゃんは変わっていて、小さな洋室にある、白い壁に立てかけられた大きな鏡の中から話しかけてくる。
お婆ちゃんはここへ来る時は部屋を自由に使っていいと言った。
ただ一つだけタブーがあって、鏡には決して触れてはいけないとも。
ある夜、眠りについたぼくは、いつものようにお婆ちゃんの部屋へとやってきた。
しかし様子が少し違う。
ぼくがやってくる時は、いつも鏡の中で待機しているはずのお婆ちゃんが居ない。
よく見るとお婆ちゃんは鏡の中のベットで眠っていた。
寝る時も鏡の外へは出ずに、鏡の世界で眠っていたのだ。
ぼくは今しかないと思った。
いつもは鏡にふれようとしても、目の前にお婆ちゃんが居てじゃまされることが分かっているのでさわれない。
でも今ならさわれる。
ぼくは鼓動が高鳴るのを感じた。
手を伸ばし、指が鏡に触れた瞬間、鏡の中に指先が入った。
入ったというより沈んだという感覚だ。
ぼくはあせって指を引っ込めると、指も鏡の中の世界も何事もなかったかのように時間を刻んでいた。
「すごい。これなら鏡の中に入れる!」
ぼくは思わず心の中で叫んだ。
もう引き返す気はなかった。
今度は足から入った。
少し半身になりながら、あっという間に鏡の世界に全身が入った。
鏡の中は、鏡が写すお婆ちゃんの部屋。
ぼくはロッキングチェアに腰かけ、ゆらゆらと揺れていると、お婆ちゃんが目を覚まし僕に気づいた。
お婆ちゃんはベッドから身体を起こし、大きくため息をついて少し物悲しいような、それでいて嬉しいような表情を浮かべて言った。
「こうなることは分かっていたわ。それなのにここで寝たふりをしてあなたを招き入れた私の罪は大きい」
そう言うとお婆さんの姿は四十歳くらい若返り、妖艶(ようえん)な女の姿へと変貌した。
ぼくはあっけにとられながら聞いた。
「ここへ招き入れるのが罪なの? どうして?」
妖艶な女はベットから離れて、ぼくの目の前に立った。
そしてこう言った。
「あなたが入ってきた鏡はどこにある?」
ぼくは「え?」っと思って今さっき入ってきた鏡の方へ目をやった。
無い・・・・・・。
ぼくが入ってきた鏡はどこにも無い。
彼女は話を続けた。
「入ってきた場所から外にいる人と話すことはできる。でも外へ出ることは永遠にできないの」
ぼくは複雑な思いが脳裏を駆けめぐった。
妖艶な彼女の姿を見て、彼女は数百年前に戦争のため生き別れた、ぼくが誰よりも愛していた女性であることを思い出した。
彼女がなぜこの世界に入ったのかは分からない。
しかし戻ることができないというなら聞くのも野暮というものだろう。
ただ、戻れないということは、ぼくの肉体の死を意味している。
鏡に入ることはぼくが選んだとはいえ、ぼくを間接的に殺したようなものだ。
ぼくの中で様々な感情が嵐のように暴れまわった。
その様子を何も言わずジッと見つめる彼女。
入ってきた場所をいくら手で探っても、彼女の言う通り帰り道は無かった。
それからしばらくして、ぼくの中で一つの整理がついた。
僕は一つだけ小さなため息をついたあと、彼女をギュッと抱きしめて、それから永遠に続くのではと思えるほどの長いキスを交わした。
終
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