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SS【人情そば】1295文字


「ああ、今日で食べ納めかと思うと寂しいですよ。おやっさんの打つそばも出汁も最高なのに」


「ハハ、そう言ってもらえると嬉しいよ。とは言っても私はもう米寿だからね。脱サラして始めたそば屋も早四十年。もう思い残すことはないよ」


「へえーー、米寿でしたか。米寿で現役は凄いですね。ところでおやっさん、前から気になっていたんですけど、店の名前はなんで人情そばなんですか?」



私は今まで幾度となく同じ質問をされた。だがそれに答えるのもこれが最後になるだろう。


私は語り始めた。


大昔に都会で一人暮らししていたことがあってね。

地震がきたら倒壊するんじゃないかってくらいのボロアパートに住んでいた。

学生の一人暮らしみたいな狭い部屋で、隣や上の部屋の生活音がよく聞こえていたよ。


私が入居した時には両隣りに誰も入っていなかったんだけど、上の階の家族がうるさくてね。毎日のように子どもが飛んだり跳ねたりする音が聞こえていた。

夜中や早朝までうるさいものだから、私は我慢できずに苦情を言いに行ったんだ。

その時は謝ってくれたんだけど、けっきょく騒音はずっと続いた。

ある時、頭にきた私は酒の勢いも借りて再び苦情を言いに行った。そして今度は感情に任せて怒鳴り散らしてしまったんだ。

あとから聞いた話では、その部屋にはどうしても落ち着くことのできない男の子が住んでいたようでね。

母親はそんな息子を一人で育てながら昼も夜も働きに出てた。

そんな事情を知ってか知らずか、私以外にも苦情を言っていた人がいたみたいでね。そこへ私が怒鳴り込んだことで、その親子は出て行ってしまった。

でもね、結婚して子どもを授かってみてよく分かったよ。泣いたり飛び跳ねたりするのが子どもの仕事だって。

私が子どもを育てる頃になると隣の部屋に人が入ってきてね。その人から苦情を言われるようになった。

ポストに苦情を書いた紙が入っていたこともあった。

子どもの泣き声がうるさくて仕事に支障が出ているとかね。すぐに謝りにいったけど無視されたよ。

それに紙ってのが少し悲しかった。

もっとコミュニケーションとっておけばよかったと後悔したよ。たとえば「すいません、いつもお騒がせして。これよかったら召しあがって下さい」って菓子折りの一つも持って行っていれば少しは違ったかもしれない。

苦情を書いた紙を置いていくって、ようは一方通行になってるってことだろ。それじゃあお互いの事情も分からないし誤解だって生まれる。人間関係のトラブルってのは、けっきょく話し合っていないことが一番の原因なのさ。

話し合いにもならない人なら距離を置いた方がいいけど、腹を割って話し合いもせずに勝手に悪者を作るのは筋違いってもんさ。あいつが悪い、世の中が悪いなんて言っていたら、いつまで経っても幸せにはなれない。

そういうこともあって、人が持ってる思いやり、まあつまり人情を大切にしたいって思いをこめて人情そばって名前にしたのさ。

この歳になると子どもの泣き声なんてぜんぜん気にならないよ。まあ耳が遠くなったからかもしれんけどな。ハハハ。


さっ、そろそろ店じまいするで。

おまえさん、元気でな。たまには顔見せにきておくれ。


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