映画「違国日記」
ネタバレしますしめちゃめちゃ批判します。
映画「違国日記」を大事にしている方はお引き取りください。
「私は決して、あなたを踏み躙らない!」
槙生ちゃんの言葉を聞いて胸が焼けるような苦虫を噛み潰すような、そんな気持ちになるとは思ってもみなかった。
大事な大事な「盥」の場面。そこに至るまでに槙生ちゃんが朝を、親を突然失った子どもを、これほどないまでに踏み躙っていた。
槙生ちゃんが遺体確認の場にいたら、黙っていなかったと信じる。ましてや朝の横に突っ立っているわけがないだろうと信じる。
「あなたは、15歳の子供は
こんな醜悪な場にふさわしくない
少なくともわたしはそれを知っている
もっと美しいものを受けるに値する」
これを醜悪な空気に、大人達に言い放てないのが映画の槙生ちゃんだった。
ここを削除したのは象徴的だった。
朝はずっと、無神経で無配慮で無遠慮で想像力のない無邪気な子どもをやらされていた。
彼女自身の境遇からLGBTQ等々のセンシティブな問題提起のための、説明のために。
「ふつうで卒業したかった」彼女が「事故で両親を亡くして不安定になっている可哀想な子」としてしか映されなかった。彼女の孤独は他人が消費できる悲しみにばかり焦点を当てられて、甘えるばかりの子どもの独占欲として処理された。
砂漠にひとりで立っているしかなかった、立ち続けて「寂しい」を埋める事は望めないと知った上で口にできる、わたしの知っている強くて優しくて衒いのない朝はどこにも居なかった。
たくさんの場面やセリフが「今その状況で口にすると意味が変わって受け取られる恐れがあるだろう」という入れ替え方をされていた。それも悲しかった。
「傷つけたくはないんだ」と示しながら、自分の言葉に責任を持つあの丁寧な空気はどこにもなかった。
あまりにも悲しかった。
「家族っていいものだよね」という映画にするのなら。
心を砕く事の意味を、相手と自分の双方にそそぐ未来を怖れながら、それでもと言葉や態度を選び続ける人たちの勇気を描かないのであれば。
違国日記を選ばないで欲しかった。
この映画からは、徹頭徹尾「角を立てない」という強い意志を感じた。
全てをボタンの掛け違えにした。
槙生ちゃんにとってのお母さんも、朝にとってのお母さんも、子どもの心に爪を突き立てる描写を全てないものとして。
学校の先生の対応は「周りの心配を受け取れない朝」という形に留め。
大学受験の性差別の話はまるっと濁した。
子どもの柔らかさに甘えて大人の不都合を塗りつぶして、真剣さも切実さもなく、側にいることや助言を有り難いものだよなあと大人が内輪で褒め称えあう、そうあれと実際に社会は強く圧を掛けてくる。ただただよく知る酷い現実をつきつけてきた、そんな映画だった。
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