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「じぶん」を、探してみる。

よく、見てみると、私が『自分』とよんでるものは、過去の記憶だったり、親や世間のスリこみだったり、洗脳だったり、単なる外から(あるいは過去からの)情報の集まりで、実は、自分が思うほど、自分由来のものではないと気づく。

『自分』が信じていることは、どこかで習ったり、聞いたりしたことの中から、自分で選んで、信じてることだし、好きなことも、過去の経験に通じている。

過去の経験、出会った情報などが、今の、『私』を決めている。

全然違う環境に生まれ、全然違う情報や学習に触れて、今日まで来たら、私は、今の私とは全く違う『意識』を持つようになっていただろう。

じゃぁ、そういう過去由来で信じてるものや、他から貰ったものを、とっぱらうことができたとして、そこには何が残るのだろうか。

何か残るのだろうか。

そこに何も残らなければ、私というのは、経験という情報(他からのインプット、刷り込み、洗脳含む)の集まりで、それ以外に何もないということになる。

経験には『私』という主体があるように、思われるのだけれど、その『私』も以前の経験で作られていたものであるので、どんどん、取っ払って行くと、主体になる存在が、あるのかというと、どうも、よくわからない。

仏教とか、西洋でも一部の哲学とかでは、「『自分』てのはありません」といったりする。

実際は、探しても見つからず、ないものを、あると勘違いしているという。

でも、これだけ、存在するように感じられる『自分』が、経験や他からのインプットの集まりで、本質あるいは主体がないというのは、残念な気がする。

そこで、一つの仮定:情報や経験を入れている「入れ物」的なもの。その「入れ物」の中に、情報や経験を入れていくのを「生きる」と呼ぶ。

自分とは、入れ物で、中身は、他から入って来たもの。

『私』とは、空間、場所、あるいは領域で、本質的に、ものではない、ということ。

自分の中に、何を入れていくかというのは、些細なことの積み重ねなのだけれど、一つ一つが、『わたし』を決定している、大切なことなのだ。

そして、自分が入れたものについて、「『私』はこうだ」だと信じ込まなければ、私は自分を、どんどん変えていけるということにも通じる。


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