いろは日本語教室中村の日本語教師の歴史
初めて日本語教師になったのは韓国の束草市。ソウルから5〜6時間ぐらいかかったと思う。トイレを我慢してバスに乗って束草に到着。お出迎えに来てくれた学院関係者たちに「トイレ!トイレはありますか!?」
初授業で「先生」と呼ばれて感動したことを覚えている。 肝心の内容は「自己紹介させとけばいっか」としか思ってなく、「みなさん、それではこの紙に自己紹介や私への要望を書いてくださいね」って言って紙を配った。しかし誰も何も書こうとしない。「?」と思っていたら、ある学生が「わかりません。と電子辞書かなんかで表示されているものを見せてくれた。なんとまだ五十音も終わっていないクラスだったのだ。なぜ前任の先生は引き継ぎをしてくれてなかったのだろう。慌ててホワイトボードに五十音を書いてリピート練習。その後は記憶がない。
最初は授業のコツもわからず、朝方まで授業準備して必死でやっていた。塾長に授業見学させてもらったりネットで情報集めて色々工夫してた。3ヶ月ほど経つと学生から急に教え方を褒められはじめた。今思えばあれがきっかけで自信が持てるようになったし、今も日本語教師を続けられている理由だ。
アメリカ人の英語教師、日本人同僚の女の子といつも3人で遊びに行っていた。束草市は田舎なので山登りや食事、酒飲みばかりだけど。結局一年ちょいしかいなかったのに体感5年ぐらいに感じるほど濃い生活だった。 中国語の先生もいて料理を作って招待してくれたりみんな仲が良くて楽しかった。
束草は食べ物が美味しかった。今でもハルモニカムジャタン、チュンチョンタッカルビ、トンウデフムンそばの焼肉屋はすぐに思い出す。さらに束草は北朝鮮にすごく近いので街を軍人さんが歩いている。普通に軍服で日本語を習いにくる若者もいた。
誕生日の前の晩、同僚の先生たちが飲みに連れて行ってくれた。深夜まで飲んで馬鹿騒ぎ。次の日受付からの電話で起きると朝の授業時間を過ぎている。すぐ学院に向かう。教室に入ると学生たちが俯いて暗い雰囲気で…机の上には私のために準備してくれた誕生日ケーキ…最初で最後の授業に遅刻した経験である。
束草での日本語教師生活が終わり、日本へ一時帰国後、新天地、大邱市へ。大手の語学院でそこの前任の先生は私の母の韓国語の先生の日本語の先生だった。前任の先生と付き合うことになるので、私の彼女は母の先生の先生ということになる。世界は狭い。
この学院には要注意人物と呼ばれるがいた。私は一般的にセクハラと呼ばれる行為をされていた。その人は80歳近いおばあさん。私のことを「かわいい、かわいい」と言ってハグをしたり手にキスをしたりしてきた。結局その人は他の学習者からの密告で学院を出入り禁止になった。
韓国での一つ目の学院では試験対策から教科書まで、二つ目ではフリートーキングと初級を教えるのがメインだった。どちらの経験も今すごく役に立っている。
大邱の学院ではスーツにネクタイで授業。1ヵ月に1回カジュアルデーというものがあり、その日だけ私服で授業をしてもいい。おもしろい制度だと思う。その学院はいろいろな外国語を教えていていろいろな国の先生がいたので、私服を見るのもおもしろかった。
昔々、今よりずっと若かったとき、ダウンタウンの浜ちゃんがヤジを飛ばした客に入場料払うから帰れ!って言ったのをカッコいいと思って、態度が悪い学生に学費いくらだよ?金返すから帰れ!って言ったけど財布の中のお金足りなかった。その後学院長にも叱られた。
来台1年目、初任給は22,000元、家賃は6?7,000元、光熱費1〜2,000元。残りでご飯食べたり、共有スペースの洗濯機を使ったりして生活しなければならなかった。韓国で教えていたときよりグッと生活の質が下がった。同僚の先生に節約のコツとか教えてもらいながら自助餐でご飯大盛りにしてやり過ごしてた。
しかし、実際の初給料は月計算で色々引かれて17000元ぐらいだった。社長に抗議したけど「タバコと酒やめなさい」と言われた。経験はあったのに、他の新人の先生と同じ給料、教科書作成やら模擬試験作成もやらされてこれ。かなり不満だった。なんか休日のイベントとかも強制参加だったような・・
続く
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