対峙

湖の底に


明日、俺は死ぬ。だというのに、とても穏やかな気持ちだった。
心の臓は早まるわけでなく、ただ穏やかに音を立てる。
故郷で見た琵琶湖の穏やかさ。まさに今の気持ちは、そんなものだった。
紀之介はどうだっただのだろう。凪いだ海のような、穏やかな気持ちで、己に刃を突き立てたのだろうか。
そもそも紀之介が死んだのか、まだいまだに信じられない。
目を閉じれば、初めて会った時のような笑顔で、佐吉兄さん、と呼びかけてくる。
五歳年下の友は、果たしてどこにいるのだろうか。

そもそもなぜ自分は内府に戦いを挑んだのだろう。
豊臣家のため?それはどうなのだろうか。
確かに内府の思うとおりに事が運ぶのが面白くないと思っていたのは確かだ。けれど、内府なしでは政はできないということを、理解できないほど愚かではなかった。
殿下や若君、淀様への忠心は、嘘ではない。けれど、内府との戦いを決めるほどだったかと問われれば、それは自分でもわからなかった。

殿下への忠心は、もうあの日、お葉が死んだ日から、俺の心から抜けてしまっているような気さえする。
そもそも殿下へ忠心を抱くものなど、もうあの城にはいなかったのではないか。紀之介も、弥九郎も、虎之介も市松も孫六も、誰もかれも、忠義の心を持って殿下に仕えていたものなど、もういなかったのだ。
いつからいなかっただろう。若君が生まれて、秀次様が自刃なさったときには、もういなかったのではないか。そういえば紀之介はあのあたりから病を理由にめったに出仕しなくなった。見舞いに行けば元気そうにしていたが、「目が見えず、もう字が書けないので出仕しても足を引っ張るばかりです」と頑なに断っていた。目が見えぬだけならその頭巾はいらないだろう、と指摘すれば、「これは、私の心を隠す覆いなのです」とわけのわからぬことを言われた。
心を隠す覆い。その言葉を思い出して、ああ紀之介はもう忠義心がないどころか殿下を恨んですらいたのではないかと思い当った。
秀次様の奥方たちや御子たちが六条河原で斬られるのを、俺は見ていた。その何日かした後、紀之介に会った。やはりいい気持ちはしないもので、久しぶりの酒盛りは、もう愚痴のようになっていた。
「佐吉兄さんはまじめだから、きっと苦しいこともあるでしょう。私は不真面目だから、こうやって仮病を使って休んでいます」
「仮病は仮病でも、目を病んでいるのだからある意味嘘ではないな。そうだ、目の調子はどうなんだ。祈祷に行ったと聞いたが」
「だんだん、見えなくなってます。もう佐吉兄さんがどんな顔をしてるか、わからないくらい」
それは、重いな。自分がどんな顔をしているか、鏡もないのに自分のほうがよく分かっている。
「殿下が雲隠れするのが先か、私が雲隠れするのが先か。私のほうが先だと、楽なのですが」
「滅多なことを言うなよ。大体まだ末の子は元服もせんのだろう」
「上二人はもうしましたよ、元服。利世も嫁に行ったし、もう彼岸のお夏が恋しいです」
「お夏殿は、まだお前には来てほしくないと思うぞ」
そういうと、唯一さらされている双眸が大きく見開かれた。黒々とした目は、整った形をしている。まだ殿下につかえ始めたばかりのころ、女子と間違われて町のごろつきに声をかけられたことがあったかと思い返していた。
「兄さんにわかるんですか?」
「失礼だな」
確かに俺は、あまり人の気持ちを汲むのが得意ではない。それで何度、相手を憤らせたのか。しかし後悔はしていない。こうして、自分を理解しようと、理解してくれる人がいるから。
「でも、兄さんの言葉は信じましょう。私がここまで来れたのは、兄さんのおかげですから」
「おいよせ」
「私は何があっても、兄さんの味方ですよ」
そうにっこりと笑った顔は、むかしのまま、何も変わらない笑顔だった。

そうだ。六条河原で、俺は死ぬ。
あの日の光景は、地獄絵図だった。まずは幼子から斬っていった。母親が、私を先にと泣き叫んでいたが、それを退け一振り、小さな体に刀を落とした。
血の匂い。生臭い血肉の匂い。戦場で嗅ぐよりも、ずっと醜悪で、気分が悪かった。斬ったそばから烏がやってきて、躯をついばんでいった。
ああ、そうだ。あの中にいた、お駒殿といったか―――秀次様に会ったことすらないという姫君の番になった時、なぜかふとお葉の顔が浮かんだ。
似ていたわけではない。ただ、浮かんだその顔を打ち消すことは難しかった。その姫が斬られて、もう何人かも斬った頃に、取りやめるようという報があったのだ。なんということだ、と思った。ああ、その話を紀之介にしたなと思う。
「殿下の気まぐれが、数刻早ければその姫は助かったのに、哀れなことです」
口調は穏やかだったが、語気に怒りがにじんでいた。その頃ちょうど紀之介は一人娘を嫁に出したばかりだった。年も近かったし、どこか重ねてみたのだろう。

「そういえば、最上殿の奥方が、亡くなったそうですね」
突然、いや話の流れとしては割と自然だったのだが、口調がどこか改まったような言い方だったので、驚いた。
「そうだな」
娘を亡くしたばかりで、さぞや落ち込んでいるだろう。傷口に塩を塗るのではないかと自分にしては殊勝なことを考えながら、屋敷に向かった。
屋敷は騒然としていた。様子を怪しんで勝手ながら入ると、辺り一面血の海となっていて、その中心に奥方がいた。
その奥方の骸を、いつくしむように最上殿は抱きしめ、嗚咽を漏らしていた。その奥方の顔がまた、お葉に重なった。
あまり口外せぬ方がいいだろうと、病死ということにして、葬儀を済ませたらしい。らしいというのは俺もそのあとは知らないからだ。そのあとどうやって自分の屋敷に帰ったのか、全く覚えがなかった。
そして、その話を持ち出した紀之介と、どんな話をしたのかも、覚えてなかった。

ぽつん、と何か落ちる音がした。
あ、と声が漏れた。
思いだした、一つだけ。

「佐吉兄さん、本当は殿下が憎いのでしょう」

紀之介はそういった。俺は何と答えただろうか。
しかしきっと、いま胸の奥にある答えと同じのように思った。

「俺は、」

―――その答えは、湖の底に埋めてしまおう。沈めてだれにも目の届かぬ所へ、この思いごとうずめていこう。

蝶はただ羽ばたく

私の目は、何も映さない。だが、だからと言って何もわからないわけでは無い。―――それでも、わからないことはやはり、たくさんあったけれど。

負けるとわかっていたか、そう言われると正直微妙なところだ。
治部殿―――佐吉兄さんが私に協力を申し出た時、もう始まろうとしていた。いろんなことが。もう私では止められないところまで来ていた。
「―――兄さん、もう少し早くいってほしかった」
「すまない。お前は病身の身だ。巻き込むべきか否か、迷っていた」
私は殿下御存命の頃より病を得ていた。周りにはそれをらい病と風潮していた。実際は目の病だ。けれど私は妻の形見の紅で痕をつけて、頭巾をかぶって出仕した。
なぜそんなことをしたのだろう。素直に目の病を理由にすればよかった。目が見えなければ書類を書くこともままならない。らい病など、わざわざ人がいむような理由をつけずとも、よかったはずなのに。
私は自分で思う以上にあの城に行ききたくなかったのだ。血肉と黄金で塗られたあの城を、私は忌避していた。たとえ自分が距離を置かれる羽目になっても、それでもよかった。
いつからだろうか。お葉殿のことがあってから、だろうか。それしか思い当るところはない。佐吉兄さんは黙々と仕事をしていたけれど、私にはそれがかえって痛々しかった。
秀次様の奥方たちや御子達が六条河原で処罰された、何日か後。佐吉兄さんが私の屋敷に来て酒盛りをした。
佐吉兄さんがどんな顔をしているか、もう私には見ることはできない。けれど声で分かる。きっとやつれて、ひどい顔だ。
私も何といったらいいかわからない。ただ兄さんはまじめだからつらいでしょうね、とだけ。そこからようやくぽつぽつと、話が始まったと思う。
本当に、痛ましい、やりきれないことだった。武家で男児はともかく奥方や女児は尼にするなり実家に返すなりして、あのように死罪になることはないのだ。
本当に、本当に。殿下は変わってしまった。
少なくとも信長さまが生きておられたころは、あんな風ではなかったのに。
もうもとよりかけらしかない忠義の心というものは、あそこで一気に吹っ飛んだような気もする。――――その前から無かったか。もうわからなくなってきた。
痛ましい、と思うのはあの殺された奥方の中に、娘と同じ年頃の姫がいたからに思う。そしてその娘・利世は、ちょうど嫁に出したばかりだった。もし嫁ぎ先であんな目にあったらと思うと、骨身が震えた。あまりにも心配で文を出した。すぐに大丈夫ですよと返事が来た。あろうことか婿殿からも文を頂いてしまった。義父上に心配をかけて申し訳ない、と。わたしが勝手に心配していることだから、気を使わなくても良かったのに。
(けれども、よかった。安芸の婿殿が、左衛門殿で)
もし、運命の歯車が違えていたら。あの河原で首をはねられていたのは我が娘だったかもしれない。
利世があそこへ連れられて行く、そんな夢を、しばらく見た。

「義父上は、どうしてそのようないでたちでおられるのですか」
見舞いということで婿殿がいつぞか来たとき、そう問われたことがある。同じことを兄さんにも聞かれたなあと考えて、私は兄さんに行ったことと同じことを左衛門殿に伝えた。
「これはね、私の心を隠す覆いなのですよ」
薄れた視界で、左衛門殿が目を見開く気配が見えた。調子がいい時はぼんやりと見えるけれども、近頃はほとんど見えない。兄さんとの酒盛りのときは、一寸先も見えぬほどだった。
「覆い、ですか」
「ええ、婿殿のような方には、必要ないものだと思いますけど」
嫌味でも何でもなく、私は素直にそう思った。私を見る目は、痛いほどにまっすぐだった。兄君とはあまり似ていないなあと初めにあった時は思ったけれども、この視線は兄弟そっくりだった。
「いえ、某は嘘が下手なので、却って必要かと思います。―――最初の妻にも言われましたし」
最後の言葉に妙に間があったのは、私に気を使ったのだろうか。左衛門殿にはすでに奥方もお子もいることは、とうに承知だったのだけれど。むしろ追い出すような真似をして申し訳ないとすら思っていた。だから利世にはかなり言い含めたように思う。
「まあ、それはわかりますけれども。婿殿は嘘がつけぬ人とお見受けしました。お父上―――安房守殿は、嘘がお上手なのですがねえ」
「その才能を、父は我らには下さらなかったようでして」
苦笑交じりの声が耳に届いた。確かに、兄君もあまり嘘が上手ではない。その代わり、二人とも誠実な人柄がにじみ出ていて、好感が持てる。
―――私のような、者とは違って。
「義父上は、どうして殿下を憎むんです」
そう言われて、私ははっとした。憎い、とはっきりと言葉にされて、動揺した。忠義心がないのは否定しないけれども、自分にうずまく感情は、憎しみ、だったのだろうか。
―――でも、そうかもしれない。
「そう見えますか、婿殿には」
「ええ」
目を凝らしたけれども、婿殿がどんな顔をしていたのかわからなかった。そして、想像することも、できなかった。

***

「殿、もう……」
家臣たちの悲痛な声が聞こえた。平塚殿から立派な歌もたまわった。小早川は予想通り裏切った。―――さすがに囲んでいた連中まで裏切るとは思わなかったけれど。
「潔く、ここは自害します。―――お前たちは、好きにしなさい」
息子たちにそう言うと、すすり泣く声が聞こえた。二人とも、泣いているようだった。何と情けない、と思ったけれども、愛おしいと思う方が勝った。そして、申し訳ないと思った。
どうかせめて、どこぞで幸せになっておくれ。二人が抜けだしたのを見届けてもらった後、私は切腹の用意をした。切れ味の良い、その刀を、私は気に入っていた。
その刀が、どんな輝きを持っているか、私はもう見えない。躊躇うとかえってひどく苦しむことをよく知っているから、思い切り、刃を突き立てた。

その刹那、不思議と婿殿の顔を思い出した。

「さあ、どうだったでしょう」

あの時の問いの答えは、言わずに墓まで持って行くことにしよう。ふと見やると、黒い揚羽がはばたいて、遠く遠くへ飛んでいった。

#創作大賞2022


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