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カール・テオドア・ドライヤー『奇跡』 奇跡は誰が起こすものなのか。


先日、映画『奇跡』(1954)を鑑賞してきた。先日といっても、2月の下旬頃だったので、すでに3週間ほど寝かせてしまったのだけれど…。

特集上映「カール・テオドア・ドライヤー セレクション vol.2」が、現在全国で順次開催されているそう。今回は、元町映画館にお邪魔して鑑賞がかなった。

ポスターがもうかっこいい。


< 概要 >

『奇跡』(1954)
監督・脚本:カール・テオドア・ドライヤー
デンマーク/126分

1955年 ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞
1956年 ゴールデングローブ賞 最優秀外国語映画賞


あらすじ

ユトランド半島に農場を営むボーオン一家が暮らしていた。長男の妻で妊婦であるインガーはお産が上手くいかず帰らぬ人に。家族が悲嘆に暮れる中、自らをキリストだと信じ精神的に不安定な次男ヨハネスが失踪、しかし突如正気を取り戻しインガの葬儀に現れる。カイ・ムンクの戯曲「御言葉」を原作に、演劇的目線で家族の葛藤と信仰の真髄を問う傑作。

本作品は、デンマークの映画監督カール・テオドア・ドライヤー(1889-1968)による白黒の有声映画。ドライヤーは、無声映画からトーキー(発声映画)へと映画時代が大きく変化する転換期に活躍した大監督だ。


はじめに

無知な私は、今回の特集を知るまで、監督の名前さえ初耳。白黒映画も映画館で鑑賞するのは初。内容も宗教関連、時間も2時間オーバーと、正直寝てしまわないかが非常に心配だった。

鑑賞後の率直な感想は、思ったよりわかりやすかった、けどわからない部分もあるなあ、だった。美術館で作品を鑑賞するときのような掴みどころのない感覚が一番近い。

こんな感覚を経験したことはないだろうか。芸術作品を鑑賞して、ちんぷんかんぷん、わけのわからないものもあれば、なんだかわかるような気がしないこともない、なんてものもある、と。芸術作品の横に貼られている、題名や説明文を読んでみても、少ない言葉や難解な言い回し多く、答え合わせできているのかわからない。

結局、自分なりの解釈で作品をとらえるほかない。自分の考察が作り手の意思と相違ないか確かめたいのに方法がないなあ、なんてヤキモキしてしまうことが、私は結構ある。
芸術作品によっては、鑑賞する人に解釈を委ねる、なんていうのも少なくないけれど、できることなら、作り手の意図をより近く感じたい、と思う。

ただこのような気持ちになる原因のひとつは、たぶん知識不足なのではないか、と思うことがある。
例えば、今回の作品の中だと、キリスト教の宗派について私がどれくらいっているか?聖書の言葉やヨハネスの言葉の引用の意味がどれくらい理解できているか?と言われたら、「わからない」よりもむしろ「知らない」が的確だろう。。

ということで、まず前提としてキリスト教の基本的な歴史や宗派について、鑑賞後調べてみることから始めた。(素人調べのため、誤り等があれば優しく指摘してほしい)
後日記事でまとめてみるので、よければ一読いただければ…(幸)


<作品内容>


以下、映画のネタバレを含みます。(あらすじでほぼすべて書かれているので、ネタバレも何もという感じではあるのだけれど…)

作品の特徴

・本作は、ドライヤーが65歳のころの作品。
室内劇的な場面が多く、カメラワークが独特
アクションよりもセリフ重視
・頻繁に珈琲タイムが登場。北欧の珈琲文化を写す。
※舞台となった北欧(デンマーク)では、1900年代に禁酒令が敷かれていた。お酒の代替として、珈琲が親しまれるようになる。また、デンマークは寒い気候に加えて、日照時間が短いという地域のため、消費量が世界一位にもなるほど、愛飲されている。
・作中前半、長セリフや難解で意味深なフレーズが多く登場。後半への伏線や、「ヨハネスの福音書」からの引用が見られる。
・登場人物たちの関係性の説明はなく、作中の振る舞いなどから読み取る必要あり。
ドライヤーの最高峰とも名高い作品


ストーリーのまとめ

*父と仕立屋は異なる二つの宗派であり、対立関係。ただ、両者ともに、自然法則には逆らえないという考えは共通している。
*信仰心の価値観の違いにより、父と仕立屋によって、弟は結婚を反対される。父は、インガ(妊婦)に男児の誕生を願う。
*インガの出産は失敗。直後、インガも生死をさまよう。
*インガの死において、父の宗派も仕立屋の宗派も、死に逆らうこと(=死んだ者が生き返ること)は神への冒涜となる。父は、死なせないことを願い、仕立屋は死の原因に自分が関係しているとは一切考えていない。
*インガが死んだとして、家族は悲嘆に暮れる。葬儀が執り行われる。
*インガの死を通し、結婚を反対していた父と仕立屋が和解し、弟は結婚を許させる。
*前半では、精神異常者として描かれていた次男ヨハネスが、預言者(神の代理)として、自然法則を変えられる存在かのように、正気に戻って葬儀の場に現れる。
自然法則は超えることができると知っているヨハネスと、自然法則をまだ知らない子供たちによって、『奇跡』が起こされる。
*無信仰の夫は、インガの死の奇跡を目の当たりにして、信仰を持つようになる。(作中でインガが夫に「あなたもいつか信仰を持てるようになるわ」と諭すシーンの伏線を回収。)
*『奇跡』を目の当たりにして、ヨハネスと子供以外が驚きを示す。


<考察>

個人的には、本作の着目ポイントは以下の2点。

①登場人物ごとの信仰心のギャップ
(→「信仰」とは、なにか?)
②思想・信念ごとの「奇跡」のとらえ方の違い
(→「奇跡」は誰が起こすのか?)

①  登場人物ごとの信仰心のギャップ


⇒「信仰」とは、なにか?を問う。

キリスト教には、カトリックとプロテスタントに代表されるように、複数の宗派が存在する。
作中でも登場人物によって、信仰のあり方や信仰心の強さに差があることが見受けられる。また、敬虔な信者として深い祈りをささげるものもいれば、現実主義で神の存在を重視せず、無宗教・無信仰者もいる。

本作では、「信仰」をすることとは、つまりどういうことなのか、を問題提起しているように思う。盲目的に信じることだけが信仰なのか。

復活後インガが口にする「自分はたった今信仰を得たのだ」という言葉には、生還への安堵以上のものがにじみ出ている。私たちの信仰とは、「ただ信じること・願うこと」の先にある、「信仰への喜び」を獲得するところにあるのではないだろうか。


②思想・信念ごとの「奇跡」のとらえ方の違い


⇒「奇跡」は誰が起こすのか?

本作を鑑賞して、現代に生きる特定の信仰を持たない人(多くの日本人)はこの奇跡をどうとらえるだろうか。現実主義的目線で見れば、インガの死は、単に誤診でありそもそも死からの復活とさえも言えないかもしれない。(インガはそもそも死んでおらず、周囲が死んでいると騒ぎ立て、葬儀にまで及んだ、と見えなくもない。)インガの死からの復活に付随する一連の出来事を「奇跡」としてとらえるのは、あまりに過大評価だと。

本作では、あくまで「生還した」と人々の目に映ることで、自然法則を超えた『奇跡』が起こったと登場人物たちは感じたのだろう。個人的には、この事象を奇跡ととらえるかどうかは、鑑賞者の意思に委ねられていいと思っている。

本作はキリスト教をベースとし、信仰の対象は神であり、奇跡を起こしたのは神及び信仰のおかげだ、と描かれている。では、「奇跡」というシチュエーションを現代社会の我々(無信仰の現実主義者)に置き換えた時、奇跡は誰が起こすのか。

これは、あくまで私の見解だけれど、奇跡を起こすのは、何かを願うその人自身なのではないだろうか。信仰がある人も、信仰を持たず現実に起こる事象のみで生きる人も、自分の想像を超える出来事に出合うとき、「奇跡」が起こるのではないだろうか。

想像以上の出来事が度を越えた時、私たちはそれを「奇跡」と表現する。小さな奇跡も大きな奇跡も、何かを願い想像する誰かの存在がいてこそ、「奇跡」となる。

もしあなたが、奇跡を起こしたいと思うのなら、まずは自分がそれを信じることこそが大切なのかもしれない。


一緒に映画を観た日に撮ってもらった写真。
異世界への入り口みたいでお気に入り。


内容的にも難解な映画の感想・考察のため、ちぐはぐな言葉になってしまったかもしれない。もし私の感想で、誰かがこの映画につながればうれしく思う。


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