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一人で映画を見に行く夏の午後。(『after sun』ネタバレなし)

ずっと観たかった映画があと数日で公開終了と知り、急いで予定を確保した。期限や終わりを意識しないと、「気になる」ものはうっかり逃してしまう。「気になる」ものは曖昧で不確かで、拾うも逃すもすべて自分自身にかかっている。拾いにいったものも、うっかり(実は意図的に)逃してしまったものも、運命と思って受け止めることにしている。

少しスピっぽいこの思考は、拾えた「気になる」を特別なものにして自分の中で育てるいい肥料になってくれる。私が拾えたものだけが、私にとっての特別で、逃してしまったものはそれほど重要じゃなかったのかもと。見逃してしまった番組とかバイキングで取り損ねたスイーツのことも1週間もたてば忘れしまうみたいに、たぶん逃したことはどうってことない。


今回観たのは『after sun』という父親と2人で過ごした夏休みを、20年後、その時の父親と同じ年齢になった娘の視点からつづり、当時は知らなかった父親の新たな一面を見いだしていく姿を描いたヒューマンドラマ。

実は私、このあらすじさえほぼ知らない状態で鑑賞しに行ったので、初見映画館ではいったいどういうお話なのか理解することだけで精一杯。ただただ茫然と、流れる映像に没入する
100分間を過ごした。

かなり難解な映画で、わからない部分も多く、だれにでも薦めたいかと言われればわからない、というのが率直な感想だ。直接的な描写や劇的な展開が少なく、説明がされない部分も多々あるため、わからないまま映像が進んでいく。初見の鑑賞ではこの映画の重きはどこあるのか自分の感情がどう揺さぶられるのか、わからない不安定なまま観続ける必要があり少し苦しかった。

映像が眩しくて、
子供の頃行った家族旅行を思い出した。


初めて観る舞台や知らない監督の映画を観ると、私は鑑賞中極度の緊張状態に陥ってしまう。(特に開始15分くらいは慣れるまで息苦しい。)次何が起こるのか、どういうテンション・テイストなのか、まるでジェットコースターの頂上で足もつかず宙ぶらりんにされているような気持ちになる。笑い転げるような面白さばかりではないけれど、映画館や舞台などのその時間限りのピンと張りつめた真新しい空気をひしひしと肌に感じるのが好きだ。座っていても落ち着かなくて、心臓がずっとバクバク、手に汗をびっしょりかいて一緒に観に行く人を心配させてしまうほど、その空気にやられてしまう(笑)

映画館は鑑賞者に、良くも悪くも制約のある空間で、観ることを強要する。
数か月待てば無料配信で観られるものを、あえて映画館まで足を運ぶ。時間、空間、音響の大きささえ決められた映画館という環境に、私たちは自ら服従しにいく。私はきっと映画館で、「映画を観る」ではなく、「映画を体験」している。



決まって鑑賞後には、ほかの人たちの感想や考察を検索しては、むさぼり読むことにしている。自分以外の人は、何を感じたのかどこまで理解できたのか、私にはそんなことがとても気になる。特に『after sun』の初回鑑賞後の考察は、読めば読むほど、いつもにも増して自分とのギャップを無視できなかった。化粧が落ちるほど泣いたという人や重すぎるテーマに震えたという人など、一度映画を観ただけでダイレクトに感情をキャッチできる人たちの感想が、カッコつけのように感じてならなかったのだ。(この映画って説明も少ないし、感情移入できるほど初見ですべてに気づけるものなの?感じ取れない私は、思考が浅いの?)

映画館で観なければ、こんな不安な気持ちになることも、集中して観続けることも、自分が理解できる物事の内と外の境界線を突き付けられることもなかったかもしれない。
映画や舞台、だれかの創作物を感じようとすることは、私にとって心地いい感情ばかりではない。わからなくて不安で、もどかしい。


それでも私は誰かの創作物から気持ちをのぞき見したくなる。近づきたいと思ってしまう。


たくさんある中から、この『after sun』という映画をみつけた。映画館でこの映画を観るという選択をした。この機会を生かさない手はない。





自分が拾えた「気になる」を大事に大事に育てていく。映画館は私にそんな機会をくれる。
これだからついつい仕事を休んで映画館に行ってしまうの(笑)

もう、あの空間の虜なのかもしれない。


ポスターを誰か折ってしまったのかと思ってたけど
こういうデザインでした(なるほど)


↑映画鑑賞後にぜひこのポッドキャストを聴いてほしい。復習と再考のきっかけになって、もう一度見たくなるはず。
#東京フレンズの映画なレンズ


#アフターサン
#映画
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