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子を「かすがい」にしたくない私

私と彼女は別の人間

私のかっさばかれたお腹から、娘が外の世界に出てきて
はや一年になります。
腹壁破裂という病症も無事に治まり、今では元気にご飯をもりもり
おかわりするような立派な幼児に育っています。

私は以前の投稿にも書いたように、生きていくのが辛すぎて
正直自分がこどもを産んで「この世界は楽しいよ」なんて
自信を持って言えないなと思っていたタイプの人間であった経験から、
子どもに対してはすごく思うことがあるのです。

妊娠期間は自分と物理的に繋がっていた娘も、
臍の緒が切り離された時から、母と子である以上に
「私」と「彼女」という切り離された別の人間なんだという感覚。

「彼女の人生は、彼女のものだ」と。
これを強く、強く思いながら守り育てていきたいと思うと同時に
「子はかすがい」という言葉に、私はぞわりとする拒否感と
自制の念を抱かずにはいられません。
今回はその言葉と私の思いをつらつらと書きつらねていきます。

「子はかすがい」とはそもそも何か

「子は鎹(かすがい)」という言葉を調べると、
「子供への愛情から夫婦の仲がなごやかになり、縁がつなぎ保たれることのたとえ。
鎹は二つの木材をつなぐコの字型に曲がった 釘のこと。(wiktionaryより引用)」
とある。

元々は夫婦仲をつなげるものというのが
世間に浸透している意味合いだとは思うのですが、
俗にいう自己肯定が下手な私からすると、「私」と「世界」という
二つの材料、もしくは「自分自身の命」繋ぎ止めるような
そんな印象が心の中で芽生えてしまうのです。

もちろん自然発生的に、子どもがいてくれるだけで、
まるで部屋に自然に香る花のいい香りのように
夫婦や命にとってかすがいのような役割を果たしてくれている。
それは間違いではないのかもしれません。

でも、もし自分の親にとって「かすがい」が自分だったら。
自分がいなかったらどうなってしまうのかと考えると
ゾッとしてしまうのです。
夫婦関係にせよ、親の命にせよどちらにしたって、
とても重荷に感じてしまいます。

本来はかすがいなんかなくとも、人と人として
強くしなやかに繋がっていられたら
そんなに心強いことはありません。お互いの心が安定する。
ただ、それはなかなかに難しいことなのかもしれません。

私は「依存」や「共依存」の怖さを知っています。
だからこそ、家族内でそれを発生させたくない。
ともすれば自責が強すぎて私が一番危ないと
危機感を抱いています。

「子どもを自分の作品にしない」という言葉

何の機会だったか、辻井伸行さんという盲目のピアニストさんを
育てたお母様のインタビューを見ることがありました。
「子育てで気をつけたことは何ですか?」
という質問に対して、息子さんが障害を抱えられているから、
マイノリティーなお話しかなと思っていたら、
お母様は「子どもを自分の作品だと思わないこと」と
ごくごく普通の家庭で起こりうることをおっしゃっていて、
「あぁ、これだ」と思ったことがありました。
それは私が体験したことでもありました。

私は「祖母の作品」だったのだと。
祖母と私についての詳しくは過去に記事にしていたので
気になる方は以下をご覧いただけたらと思います。
https://note.com/iroha867/n/n9ac44d41e99a

私はほぼ祖母に育てられていた影響が強く、
祖母の思うように、祖母が立派だと思うように、
自分で歩いているようでいて、祖母の意に反しないよう、
ただそのレールの上を間違えないように歩いてきました。
いまだに、祖母に気に入られるようなものならよくわかるのですが、
自分が本当に好きなものが判断しづらい心を抱えています。

これは私にとって本当によくなかった。
「よくなかった」と思える経験だけでも
せめて実りだったのだと思いたい。

「子どもを自分の作品だと思わないこと」
この言葉に集約されたものが、心に鋭く響きます。

自分の人生を子どもに託したり
失敗した過去をやり直させたり
自分ができなかったことをさせようとしたり
そういうこともあからさまに重いけれど、
うっかり「作品」だと思ってしまうことって
結構日常であるんじゃないかなと思ってしまうのです。

私自身を楽しく生きることの大事さ

親の自己が剥落したままの子育ては
自己肯定感の供給を「子育てできてること」に
割と気軽に全振りできてしまって大変恐ろしい。

子育てできている自分が好き!というのも無論大切だと思うし、
そういう人も多いと思うのですが、
子育てできている自分「だけ」が許せる、
もしくは無自覚にもそれしか見えていないような状態は
結構に危険なように感じます。

もちろん子育て自体すごいことだし、偉いし、
自己犠牲なしじゃとてもやってけない所業だというのは
本格的に実践してみて痛感しました。

私のような人間っていうのは、ある種「子育て業務だけ」
なら向いているのかもしれません。
今日も一日無事に見守れたっていう達成感もすごいし、
子どもの安心安全を守り続けるより、
正直自分を幸せにする方が難しいタイプの人間です。
ただ一つ、それでもなお思うのは、
本当に子に自分で幸せになって欲しいから、
私も自分で幸せにならないとね…ということです。

何で生きがいを得るのか、何を楽しいと思うのか
それを見つけて、子育てしながら隙間を見計らって実行していくのです。
私にとってはどえらいマルチタスクです。
じつのところ、最近は自分の中で「楽しい」と思える瞬間が
非常に少なくなってきている(というかむしろほぼない)のも事実で、
その空虚感さえ育児の忙しさが埋めてくれているのでは?
と思うことが少なくありません。

苦しそうな親より、楽しそうな親と一緒にいたい。
親には親の人生を生きてほしい、
いざ子育てが終わり「かすがい」がなくなった時、
空っぽになってしまう姿を見たくない。
私自身が親に対してそう思うのです。

楽しげな母艦のようでありたい

では、こんな私が「せめて今後どういう親でありたいか」
という理想の部分だけ書いて締めくくります。

親にやりたいことを反対されたことがあります。
もちろん私の将来を心配してのことだったと
私も承知していますし、
当時の私にはその反対を押し切る力がありませんでした。

ただ、今色々あった先に結局その「やりたいこと」の
ものすごく中途半端なところにいるのを自覚しています。
どの年齢からでも始めらることは多いですが、
やはり若い時にしかできない、そこからしか積み上げられないことのほうが
通り過ぎやすく、追いかけても戻ってこないものです。

反面教師、というわけでもないのですが
私は子どもに対して、やりたいことがあれば反対せず送り出し、
失敗してボロボロになった時、いつでも帰って来られるような
楽しげな母艦のような存在でありたいなというのが理想です。
私は彼女が自由に飛び立てるまで、訓練したり、走り回ったりできる
そんな基地でありたいなと思うのです。

これはあくまで私の理想論で、実現できるかなんてわかりません。
失敗もたくさんするんだと思います。
でもきっとそれは「私の失敗」であって、彼女の失敗ではない。
という心持ちで娘にも接して行けたらいいなと。
彼女の彼女たる人生を、生きていけるように、
私も私の人生を逞しくしていかなくてはいけないな、と
隣ですやすやと眠る娘の小さな手を見つめながら思います。

何だかよくわからないままですが、
まずそのための一歩として私の楽しいことを、
小さく小さく、また再発見しながら叶えていきたいです。


2023年5月 1歳になる娘を思いながら。

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