朝井リョウ『どうしても生きてる』

はじめに

 これは、各短編で描かれているテーマに対して、自分の感情や考えや価値観を重ね合わせた感想の覚え書きです。客観的な書評ではありません。


健やかな論理

死んでしまいたい、と思うとき、そこに明確な理由はない。心は答え合わせなどできない。

 幸せではないけれど不幸でもない、何となく生活が成り立っていて不自由ない女性の、自殺をめぐる思考。

 この短編集の中でも特に「何も起きていない」瞬間を切り取っている。

 「自殺」という行為は、本当に思い詰めてどうしようもないほど絶望し続けた人だけがすることのように思えますが、実際は案外そうでもない。

 私自身が、この3ヶ月、いろんな環境だったり価値観だったりが揺さぶられる中で、別に何が大きく変わったわけではないが、友人とも恋人とも家族とも同僚ともほんのり上手くいかない、はっきりと死にたいと思うほどの明確な理由はないのだけど、無理に生きていたいと思う理由もない、この先に今以上の幸せが訪れるという気もしない……みたいなことをずっと考えていて、

 それに対する何らかの答えを出してくれるわけではもちろんないのですが、

 ただ、自分以外にもそうやって自分が今自殺していないことを当たり前だと思っていない考え方の人間がいて、その人たちが生きているということ自体に救われる部分が多少はありました。もちろん創作なのですが。


 それはまた他方で、インターネット上で誹謗中傷を行って他人を傷つけるような行為にも、明確な理由があるわけではないこととも繋がっている。

 人間の心、意思、個性に対して、どうしても一貫性や絶対性を求めてしまいたくなるけれど、実際には人間の考えなんてすごく曖昧で不安定で一貫性がなくて、たまたまインスタで見つけたアイドルが可愛かったから自殺しない、お腹がいっぱいだからヤフコメで強い言葉を書き込む、その程度の論理が成立してしまう。

 にもかかわらず、そういった人間の感情の絶対性を信用する人たちは、「たかが自分のクソリプで人が自殺するわけがない、他にもっと大きな理由があったに違いない」という論理によって、自分の軽い言動が招いた何かから逃避してしまう危険性を孕んでいるのではないか。

 「自殺する人はホームドアを設置したくらいで止めるわけがない」とか、「法的な罰則を設けたくらいでは誹謗中傷はなくならない」みたいなことを主張する人たちは、まるでそういった行為の1つ1つが確固たる動機に裏付けされていることのように考えているのでしょうが、実際には人間なんてもっと適当な存在だから、有効な対策なのではないでしょうか。もちろんゼロにはならないと思いますが。


流転

家庭、仕事、夢、過去、現在、未来。どこに向かって立てば、生きることに対して後ろめたくなくいられるのだろう。

 漫画家を目指すという夢を諦めて就職した主人公。

 若い時の夢だったり目標だったりを諦めることの正しさについて。

 自分が過去にした発言の間違いを認めて受け入れるという行為の、それ自体は確かに成長であるはずなのだけど、それができるようになることも卑怯ではないかと思ったりもします。

 「絶対に自分はこれをする」と言ってそこに向かって努力を続けることが必ずしも正しいとは限らない。そこを貫くことも、一方では意地を張っているだけだし、そこに拘り続けていたら後悔しなかったかといえばそんなことはないと思う。

 のだけど、そういうどちらかを選ばなければならない場面で「堅実な方」「社会的に普通とされている方」を選ぶのは、

 自分自身の意志以外の何かに最終的な決断の後押しをしてもらっているということであって、それは自分で自分の人生の責任を取ることから逃げているようにも思うし、

 そうでない生き方を選んだ人が格好良く見えてしまうのはそういう自分の平凡さ、没個性さが嫌になるからなのだろうなとも。


七分二十四秒目へ

あなたが見下してバカにしているものが、私の命を引き延ばしている。

 いわゆる「派遣切り」の話。と言ってしまうと単純だし、そこが主題ではないのですが。

 本当に毎日の生活がどうしようもなく苦しくて将来に希望がない女性が、単なるくだらないことをするYouTuberに救われている、という話。

 YouTubeやソーシャルゲームやギャンブルのような、人生に必要のないことがわかりきっていて、無駄でしかないものを楽しむ行為が、人生に余裕がある人だけがすることのように語られることがあります。「本当に苦しんでいる人はそんな余裕ない」みたいな。

 でも実際はそうではなくて、本当に苦しんでいるからこそそういうものに縋るしかない。逆に、余裕があるからこそ資格の勉強とか副業とか、そういう人生を更に充実させるための活動にエネルギーと時間を割けたりする。

生きていくうえで何の意味もない、何のためにもならない情報におぼれているときだけ、息ができる。

 私自身、特に4月前半なんかはもう本当に生きてても仕方ない、何で生きてるんだろう、早く死ねれば楽になるのに、ということをずっと考えていて、もう毎晩暗いことばかり考えていたんですけど、

 そういう中で、ただゲームをしてるだけのYouTuberとか、芸人がただふざけてるだけのテレビ・ラジオとか、それだけは摂取することができて、それを鑑賞している時間は確かに暗いことを考えずに済む。

 時間がどんなに余っていても、頭を空っぽにして観られない社会風刺的な映画とか、スキルアップのための勉強とか、そういうものにエネルギーを使うだけの余裕は全くなかったし、今もない。

 その行為に対する罪悪感そのものさえも一時的に忘れさせてくれるものの意義として「息ができる」という表現がとても上手いなと思いました。


 ただ、そういう生産性のないものに縋ってまで自分が生を繋ぎ留めていることに何の意味があるのだろう、とも思っています。

 それを続けた先に一体何があるのかわからない中で、生を引き延ばしたところで、引き延ばされた先に人生を好転させる何かがあるとは限らない、順調に悪くなっていく一方である可能性がむしろ高いのだとしたら、そんな人生を引き延ばす存在自体に出会ってはいけなかったのではないか。テレビもラジオもYouTubeも観ずに24時間思い詰めて死んでしまった方が良いのではないか。

 それに対する答えは自分の中では出せていないものの、現実問題として自殺するほどの勇気がない人間がそこから逃げるための道具として有効ではあります。そして、そういう人は他にもいるのだろうなと思わせてくれる短編でした。


風が吹いたとて

社会は変わるべきだけど、今の生活は変えられない。だから考えることをやめました。

 自分や家族が大きな意味での社会悪に加担していることが自覚していても止められない。自分一人がそこに逆らっても、社会は変わらないし、自分の生活が悪くなることだけが変わってしまうから。

 よく、ブラック企業に勤めている人に対して、「辞めればいいのに」とか「労基署に通報すればいいのに」とか言う人がいます。私自身も、他人に対してはそう軽率に言ってしまいたくなることがあるのですが、

 現実的にはそうもいかない人がたくさんいる。それは、一つにはそれだけの余裕がそもそもない、確実に給与が上がることがわかっていてもたった3ヶ月でも間が空いてしまうと困る、ということもあるでしょうが、

 何よりも、辞めることで事態が好転するわけではなくて、「悪い」と「もっと悪い」しか選択肢がない人がいる。その選択肢しか見えてないだけかもしれないけれど、とにかく、今の自分の状況が悪いことは自覚していても、その中でしか居場所がない場合もある。

 そこに対してそれぞれの人を責めても仕方がないし、自分も同じ立場だったらそれを選んでしまうだろうと思うと本当に苦しい。

 そして、同じ立場だったらそれを選ぶに決まっている人たちが、立場が違うだけなのにその人たちを責めている構図を見ると本当に暗い気持ちになります。

 それこそ今回のコロナ禍で、会社からテレワークの許可が下りなかったので出社している人たちに対して、「こんな中で出社させる会社なんか辞めればいい」「自主的に有休使って休むべき」みたいなことを平気で言える人々に対しても。それができたら誰だってそうしているのに。


そんなの痛いに決まってる

尊敬する上司のSM動画が流出した。本当の痛みの在り処が映されているような気がした。

 この短編集はどれも社会人の話なのですが、人間の性欲というものに対してかなり誠実に向き合おうとしている感じがしました。それが特に強く出ている短編。

 社会的な存在としての人間と、動物としてのヒトとが、まるで分かれて存在しているように見えて本当は繋がっている。

 しかも、人間の三大欲求として普遍的にあるはずなのに、性欲だけがタブー視されていて、誰でも持っているはずなのに持っていることを大っぴらにできないという矛盾。

 これは、この短編ではなくて、最初の『健やかな論理』からの引用ですが、

今は白いシャツを第一ボタンまで留めて人畜無害な社会的な存在であるかのような顔をしているけれど、数時間前、もしくは数時間後には射精したりしているのだ。

 会社のミーティングに出ている時に、今ここに出席している全員まるで性欲なんてありませんみたいな顔しているけどほぼ間違いなく全員あるんだよな、ということを考えてぞっとすることがよくあります。

 子どもがいる同僚に対しても、それって本当は子どもがいること自体が「私は結婚相手とセックスをしています」と公言しているのと同義なのにな、と、ふっと考える。なのに、子どもがいるという話は全然タブーじゃなくて明るく語られるのが、気持ち悪いし、不誠実だと思ってしまうのは、私がおかしいのでしょうか。


 そういった、社会的な部分と本能的な部分が不可分であることを端的に描くエピソードとして、

 「妻に給与で上回られてから全く勃たなくなる主人公」という設定の圧が凄いなと思いました。フィクションではあるのだけど、どこかであり得そうだなと思ってしまうリアリティ。

 別に夫婦のどちらが給与が多くても良いはずだし、そこで敗北感を覚えること自体が男尊女卑的な思想に基づいているのも間違いないんですが、それをいくら頭で理解していたとしても身体は正直な反応を示してしまう、それは価値観として一度育ってしまったものは後からどんなに賢くなっても払拭できないのではないか。そしてその正しくなさも自覚しているから誰にも話せない。

 実際自分がそういうシチュエーションになったらどうなるかはもちろんわかりませんが、絶対にそうならないと言い切れないこと自体が自分の性差別的な思想を物語っていやしないかということも考えてしまいます。


 差別に限らずいわゆる不謹慎な言動、感情というのは、頭の中にあっても言わなければ良いのか、それとも頭の中にある時点で良くないのか。

 「考えているけど言わない人」と「考えていない人」の差を証明することが不可能である以上、後者については取り締まれないから実質的に一緒なのですが、

 他人から取り締まられなかったとしても自分自身ではわかってしまう。自分で自分を判断する場合に限っては、考えがある時点で言っても言わなくても一緒なので、自己嫌悪。


性別、容姿、家庭環境。生まれたときに引かされる籤は、どんな枝にも結べない。

 人生のいろんな場面で外れ籤を引いてしまう女性の話。この短編集の中でも特に救いがない。

 誰が悪いわけでもないのだけど痛み分けにならないことというのは必ずあるし、幸福の総量なんて言うまでもなく人によって違うのに、何で自分ばっかりが、と思ってしまう。

 私自身は、人間関係や家族環境といった部分においていろいろ辛い経験もしているものの、受験や就活ではそんなに苦労しなかったし、今も仕事の巡り合わせが良くてそこそこの給与を貰っているし、ものすごく恵まれているとも思ってないけれどそこまで運が悪いわけではないと自分で思っているのだけど、

 別にその幸運な部分と不運な部分って論理的に繋がっている何かではないので、「両親が離婚して家にお金がないけど、勉強も仕事もできなくて給料が低い人生」を自分が送っていても、全然不思議じゃない。

 もっと言えば、首都圏に実家があるというだけでも大きなアドバンテージになっているし、もしくは今と全く同じ能力・境遇であっても、自分が女性として生まれていたらもっといろいろ大変だったろうなとも思いますし、そうなっていないのは単に自分が運が良かったからでしかなく、

 そして実際にそういうどうしようもない境遇でたまたま悪い方ばかりを引いてしまっただけの人はいるはずで。

 そういうことの一つ一つを粒立てていけば、確かに本人の努力によって解決できた部分もあるかもしれなくて、全く同じ境遇であってもそれ以上の頑張りによって跳ね返せた人、母子家庭で独学で東大に受かって起業して奨学金返済しました! みたいな例ももちろんあるだろうけど、

 一方で、そんなに頑張らなくてもそこそこの暮らしを享受できている人もいて、そういう人たちが自身の幸運に気づかないままに、不運な人がそれ以上の努力をしていないことを努力不足と断じてしまうのはあまりにも無理解で差別的だなあと思います。


 そして同時に、完全な平等みたいなものの難しさも感じます。

 例えば、家事を分担する、となった時に、完全な平等になるのは、家族全員が、例えば4人家族だったら1日ずつ交代で料理を作る、洗濯する、みたいな形なんでしょうけど、それが本当に理想なのか。

 現実的には、料理が得意な人が毎日作ってしまった方が効率が良いし、苦手な人が得意な人の2倍の時間をかけて大して美味しくないものを作っても誰も幸せにならない。

 そして、家庭の外での負担……共働きであっても仕事の量が夫婦で同じとは当然限らないし、片方が残業が長かったらやっぱりもう片方が家事の負担をせざるを得ないし、

 そこに子どもがいたりすると、誰が一番余裕があるかなんてジャッジのしようがない。

(これは「家事は女性がすべき」的な話として語ってるわけではないです。念のため)


 みたいなことを考えていくと、最大多数の最大幸福的な論理として、結局誰かが貧乏くじを引くしかないというか、自分がそれを引き受けなかったら相手に押し付けることになってしまって罪悪感が残るし、かといって自分がそれを引いたら不公平感が残る。全員が幸せになる方法なんてない。

 今の社会制度としては誰かにその貧乏くじを引かせていることすら意識させないことで多くの人にとって居心地の良い社会であり続けていたものが、少しずつ脅かされている過渡期であるのだと思います。それこそ女性の社会参画もそうだし、外国人労働者の問題なども含めて。だからおそらく数十年後にはこの価値観自体が、若い世代には全く理解してもらえないような古びたものになっているのかもしれません。


おわりに

 全ての短編の主人公に共通して、正しくないし弱いのだけど、

 実際に自分がその立場だったらそれを選んでしまうだろうなと思わされる苦しさがあり、だからこそ救いがない。

 「どうしても生きてる」というタイトルは改めて秀逸で、別に何か目標があって生きているわけではなくて、生きるのを止める強い動機がないから仕方なく、自分が取れる選択肢の中で一番マシなものがかろうじて自殺ではない、といった程度の理由で生きていて、その中で少しだけ得られる快楽に、生きがいですらない何かとして縋っている。それがYouTuberかもしれないしセックスかもしれないし、自分よりさらに悪い他人の存在かもしれないし、自殺する自分を想像する行為かもしれない。


 それが正しいかどうかはわからないけれど、それでも現在進行形で生きてる他人がいるということそのもの、または、そういう人間像を作り上げてしまう朝井リョウさんのような人がいるということ、

 それを確かめられただけで生きることが楽になる人はいると思うし、

 私自身、この3ヶ月ずっと思い詰めていた鬱屈した感情は、全く改善はされていないけれどその感情の理解が進んだことに少しだけ救われ、今すぐ自殺してしまった方が楽なんじゃないかという気持ちが実際にほんの少しだけ薄れました。

 こうやって自分の人生に絶望し尽くすことを少しだけ先送りにする行為の連続が人生なのかもしれません。


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