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ひとり時間を楽しむことと、楽しい気持ちを誰かや何かに委ねないことの大切さ。


ひとりで過ごす時間が好きだ。

ひとりで過ごす時間が好きだし、
自分にとって大切な、必要な時間だ。
もし365日24時間誰かと一緒にいれば
わたしはきっと息ができなくなると思う。
陸に打ち上げられた魚のように。


ひとり映画、ひとり美術館博物館水族館、
ひとり外食、ひとり旅、ひとりテーマパーク、
わたしはひとり行動がわりとなんでも平気だ。


ひとり行動が苦手だという人も
案外沢山いるかもしれないけれど、
平気な人と苦手な人の違いは
経験値だけではないだろうかと思う。
不安に思うこともいざやってみると
案外平気なものだし、経験を重ねると
さらにどんどんと平気になって、
視野も広がり楽しめることが
たっくさん見つけられるものだ。

いつもは通らない道を通って、
気になるお店やいい雰囲気のカフェなんて
発見したもんなら、最高に楽しい気分になる。

そして、例えばだけど
テーマパークに1人で来ている人を見て、
1人で外食している人を見て、
一緒に来る人がいないのかとか
寂しい人だ、自分には出来ないな、などと
もしもあなたが思うのであれば、
心や物の見方を改めるべきではないかと
わたしは思ってしまう。
寂しいのは、そういうふうにしか
見ることができない人間のほうだ、と。
寂しい人だと思われるのではないかと
そう思ってひとり行動を躊躇ってしまう人も
同じ目線を持っているのかもしれない。

"ひとりを楽しむ"ということを知らない、
そのほうがわたしにとっては
よっぽど寂しいことだ。

目的がある場合、もちろん自分のペースで
こなしていくことができる利点があるけれど、

意外にも、大きな目的がない場合のひとり行動に
誰かといる時と違いが出てくる。

先ほども少し書いたけれど、
ひとり行動は自分の視野を広げてくれる。

ひとりでいるからこそ気づくこと、
というのは意外にも多い。

というのも、誰かといると、
意識がその一緒にいる誰かへ向いている。
けれどひとりだと、その意識は周りのあらゆること
そして自分自身に向くからだ。

いつもは気づかない景色や人たち、
周囲で起こること、目に、耳に、
飛び込んでくることがそもそも違う。
それを自分がどう感じるか、にも意識がいく。

ひとりの時間が人間として成長させてくれる。

ひとりの時間をひとりぼっちと感じるのではなく、
ひとりで何でも楽しめる!と思えることは大切だ。


「楽しむことを誰かに委ねない。」
「楽しいかどうかの気持ちを誰かに委ねない。」


意外と多いと思うんです。
楽しいかどうかを誰かに委ねている人。
その気持ちも、分かるんです。
自分がそうだったから。
「周りと比べて、自分が楽しそうかどうか」
それを楽しいかどかの基準にしてしまうこと。

だけど、

「ひとりだったから楽しくなかった」
「友達や恋人と来ている人が楽しそうだった」
なんて、都合の良い幻想だ。

楽しもうと思えばひとりだって楽しめる。
人は、自分で自分を楽しませることができるし、
そういう感覚は大切だとわたしは思っている。


ひとりでも楽しめることを知るからこそ、
誰かと過ごす時間もより楽しめるし、
大切に思えるし、大切にできる。

だからわたしにとってひとりの時間は
生きていく上で絶対に必要なものだし、
ひとりで過ごす時間を楽しめる人がとても好きだし
自分自身もずっとそうありたいと思う。

そして昔、ドキドキしながら
色んなひとり行動をしていた時、
胸を張ってズンズンと歩きながら、
わたしは1人でなんでもできるんだぞ!
と思っていた気持ちをずっと持っていたい。
うつむいて、どうしよう…じゃなくて、
寂しい人に見えるかな…なんて微塵も思わずに、
胸を張ってひとりでズンズン歩くことを
ずっとずっと、楽しめる人でいたい。



余談。

実はこの記事の見出し画の写真は
以前別の記事で使ったのだけれど
最後に書いた「ズンズン歩く」という言葉で
この記事の見出し画を、どうしても
歩いている写真にしたくなった。
というわけで、過去の記事の写真を差し替えて
今回のこの記事に改めてこの歩いている瞬間の
写真を使いました。



ちなみに以前この写真を見出し画に
使っていた記事はこちらの記事。
景色の写真に差し替えました。





それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。





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