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”負けず嫌い”の戦い方


「勝つか負けるか」


そういう世界が好きじゃない。

それは平和主義とか綺麗ごとではない。
ぼくはたぶん、異常なまでに負けず嫌いなのだ。

友だちとの遊びでも、仕事でも、「相手に負ける」ということがすごく許せなくて、若い頃は負けるとわかりやすくピリピリしていた。ボーリング対決でも。スト2でも。すごく小さい。

想像に容易いけれど、そんな奴がその場にいると空気は悪くなる。
さすがにそんなこともわかってるけど、それでも態度に出ちゃうし、そんな自分が心底嫌だった。

本当はもっと、潔く負けたいし、負けてもいいって思えるようになりたかった。

そう思って生きているうちに、なんとなく「負けず嫌いの戦い方」が勝手に備わってきていた気がする。負けること自体は相変わらず大嫌いだから、それを回避する方法を身につけてたわけだ。

おそらく、社会人になってからの会社員生活、そして今も、この戦い方で生きてきているように思う。

負けず嫌いの戦い方はこの3つ。

それぞれ順を追って説明していく。


1.戦わない

負けるのが嫌なのであれば、戦わなければいい。
すごくシンプル。

ただ、戦わないけど、何もしないというわけにはいかない。だから、ぼくは、違う土俵に立つ、ということをやたらと意識している。

この土俵に目を向ける行為は意外と勉強になることがある。同じ土俵に立つまいと考えると、俯瞰して世の中や市場を捉える必要がある。どうしても日常は近視眼的になりがちだけど、大局観を養うことができる。

かつ、あまりに短期的な目線だとその土俵にはすぐ競争相手がやってくる。しばらくは他が嫌がったり面倒くさがったりして土俵に上がってこないところ、そんなところを探す。

資本主義の社会は、「競争」「比較」がベースにあると思うけど、その対象には意地でもならないしそんなことは意識しない。その気配が近づいてきたら、すぐさま逃げる。


2.「負けた」と思わない

人それぞれ、他人は他人。育ってきた環境も、いま置かれた環境も違う。「みんな違ってみんないい」みたいな美しい考えでもない。ほぼほぼ言い訳でしかない。ダサく思われるかもしれないけれど、そう考えて生きている。

会社員になって同期や後輩たちが「同期のあいつには負けたくない」と言っている姿をよく見てきた。

そのあいつとは、部署が違う。上司が違う。同僚が違う。クライアントが違う。求められていることが違う。

さて、それで比べる?
比べてどうする?

やたらと他を意識する同期や後輩たちの話を聞いて、そんなことばかり考えていた。

だから、自分は「負けた」とは思わない。もちろん、「勝った」とも思わない。何かの優劣をAB間で判断する場合、統一の基準と規制が必要だ。一定の条件下でなければ成立しないもののはずが、上述した通り条件が違う中で比べすぎだ。

ただ、相手に対して何も思わないわけではない。「負けた」とは思わないが「すごいな」とは思う。この違いは、相対的に相手を見るか、絶対的に相手を見るか、の違いだ。絶対的に見ることができれば、相手の優れた点は素直に尊敬できるし、自分にも必要だと思えば真似てみることからはじめる。思えば、社会人になってから得たスキルはほぼこの「真似た結果」だったかもしれない。

自分は広告代理店に勤めていたので、「コンペ」というものを体験した。クライアントが複数の代理店に与件を提示し、各代理店はその与件に答える提案をし、その中から一社ないし複数社を取引先として選ばれる。この結果を「勝ち負け」で表現することが多いし本質的にもそうなのかもしれないが、それでも「負けた」場合も相手を「すごいな」と思うし、そのすごい点を学ぶし、自分らも「すごくなる」ってことに向き合うしかない。「負けた」と思っても何も始まらない。


3.「負けてよかった理由」を作る

それでも自身の至らない点や、劣っている点に気持ちを落としてしまうこともあるかもしれない。そういう場合は「負けてよかった理由」を作るようにしている。言い換えれば、「負けたことを正当化する」。

広告代理店時代のことを話せば、コンペで負けたとしても「既存のお客さんにもっとしっかり向き合える」と思うようにしていた。仮に勝ったとしたら今のお客さんとリソースを分けないといけないから、稼働したとしても現状を考えるとうまくいかなかっただろうな、という具合に。提案した内容も、コンペでしか活きないものではないし、今自分が担当しているお客さんに活かせるものがあればどんどん活かす。そうすることで次にコンペの機会があれば「すごく」なっていたりするものだ。

いま準備をしているnagiという自分のカフェも、色々あってオープンが遅れそうだ。これも無理矢理にでも間に合わせることはできるだろうし、「なんのために移住してきたんだ」「1年後だと色々環境が変わっているかもしれない」と落ち込んでしまうかもしれない。でも考えてみると、この地で1年間、普通に暮らしたことがないし、春夏はどれだけの観光客が来る島なのかも実体験として持っていない。であるならば、お店がはじまったらのんびり暮らすこともしばらくは難しいだろうし、年間通してどういう波があるかを把握するのも大事だから、オープンが遅れてよかったなと思う。たぶん、1年後に見えている景色は、今とだいぶ違う。

カフェの話は勝ち負けとはちょっと違う話かもしれなけれど、「うまくいかなかったとき」の心の持ちようとしては似ている。


勝ち負けにこだわらない

一言でまとめるとこうなる。

・違うことやる

・比べない

・正当化する

もうひとつ、「絶対勝つ、勝つまで続ける」という考え方もあるが、自分はそれはしない。負けず嫌いに戦い方としての本質は「勝ち負けにこだわらない」ということだと考えているからだ。

何かコトに向き合うとき、はじめは自身の興味関心やワクワク感が先に立っていたはず、「自分軸」であったはずだ。それがいつの間にか勝ち負けみたいな「相対軸」でコトや自身を評価するようになってはいまいか。

自分はこんな考え方で生きてきているので、壮大な武勇伝も修羅場をくぐり抜けてきたからこそ生まれるたくましさもないが、わりと人生楽しんでいる。

勝ち負けから解放されると、いろいろ楽なものだ。

10年先、20年先、未来の住民のために木を植えます。