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言語化と解像度の世の中で、曖昧さを大切にしたい

言語化ってそんなに重要ですか?

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昨日、久しぶりの後輩と会う機会があり、nagiに来てほしいターゲットってどんな人なの?どんな雰囲気の店なの?と聞かれた。

あれこれ試行錯誤して伝えてみようと思ってみたものの、諦めた。というよりも、それは違う、と止めた。

言語化することで解像度が高まることは確かだけど、解像度が高いってつまり『その他との境界線がはっきりしている』ということであり、『フレーム化する』『きっちり分ける』ということと同義だと思ってる。

もしかしてこの考えってすごく都会的なのかもしれない。モノ・コトが溢れているから、境界線を作らないと立場を表明できないのではないか。もちろん、それが必要なシーンは必ずある、けれども少なくともぼくらが作っている店では必要がないし、そういう世界のものではないのだ。

それに、島で暮らしてみて気づいたのは、実世界は明確な境界線なんてなくて、ゆるかなグラデーションで繋がっていて、曖昧なものなんだということ。

何かが立てば、何かが崩れるし、すべては根底の部分でつながっている。

だから、言語化という境界線引きはしようにもできないし、したくないという想いがnagiにはある。ぼくらはそういう表明的な『わかりやすさ』は捨てたのだ。

そのかわり、『感じることで伝わる』ことを大切にしたい。感じることは、五感や第六感を通じて外部と接続すること。その人がその対象とゆるかに繋がってはじめて起こること。

nagiに来て『なんか心地いい』『なんか好き』。そんなふうに感じてもらえたら、ぼくらの思う"求めてる人に正しく伝わった"ということなんだろう。

そんな伝わり方は、すごく本能的であり、裏切りのないものだと思うのだ。

10年先、20年先、未来の住民のために木を植えます。