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5月29日 話しかけられずのオーラ

今日は池袋の方に行っていろいろ見てきた。ジュンク堂と天狼院書店に行ったので、その感想をそれぞれあげた。

ジュンク堂で見つけたPOP。ハシビロコウの本の巻頭グラビアはハシビロコウらしい。

人の本の巻頭グラビアは人だなと思った

記事にも書いたが、天狼院書店は「日本一話しかける本屋」らしい。実際、来店した人に対して「ここにきたのは初めてですか〜?」と話しかけていた。

それはいいんだが、

なぜか、

僕には話しかけてもらえなかった。

なんで?

もっと言うと、話しかけられていた人よりも書店滞在時間は僕が圧倒的に長かった。話しかけられていた人は、割とすぐに出ていったが、僕は割と長い時間いた。なにしろ最初に話しかけられた人が退店してから、次の人が来店して、その人が退店するまでいたのである。(そして二人とも話しかけられていた)
僕は、別に話しかけてほしくないオーラを出しているつもりもなく、イヤホンもしていなかった。服屋とかだと話しかけないでオーラをけっこう出すのだが、書店では「まあ話しかけられるのも一興だな」てなことを思っていた。全く話しかけられなかったが。

話しかけられないからといって自分から行くのもなんか違うな〜と思い、なんとなくモヤモヤしながら退店した。

なんか話しかけにくい感じが出ているのかもしれない。もっと親しみやすい感じを出していくべきか。

そもそも、人が人に話しかけるタイミング、「いけるぞ」ってなる瞬間はどうやって把握しているのか謎である。自分と他者との間合いの問題ともいえるかもしれない。その間には一体なにが起こっているのか、その考えのヒントが『知の生態学の冒険』第二巻「間合い」にあるかもしれない。

間、間合いとはなにか?よく「間に合う」とか「間が持たない」とかいうが、ここでいう「間」はなにをさしているのか。
間という漢字には、「ま」とも「あいだ」とも「あわい」とも、「はざま」とも読むことができる。その中でも「ま」に関する著者の考えは以下の通り。

漢字の「間」は語源的に、門が少し開いていて、そこから日の光が漏れてくる様子を形象的に表現しているらしい。

外には太陽や月の光がすでに充満しており、それがわずかな隙間を通して戸の内側へと差し込まれてくる。こうした光景に、間という言葉の原風景がある。したがって、間とは、単なる空虚や無ではなく、そこから何かが現れてくる、何かが生じてくる間隙やインターバルを意味している。
まは、物と物との、出来事と出来事との、人と人とのあいだの間隙やインターバルとして定義できる。
まは、空虚で、無力な、否定的でしかない非存在ではなく、何かが生じることで二つの物を結びつけるような、しかも、その二つを独立の者としながらも結びつけるような現象である。
9-11p

本書はこのような間の定義と、ギブソンが提唱した生態学の理論枠組みを使って、新しい身体観なんかを提示する…ようである。

一章までしか読んでいないのでまだ全体が見えてこないが、なにかが得られたら嬉しい。

このシリーズ、表紙がすき

今日は書店以外にも、カフェにいって本を読みまくろうかなと思っていたが、よさげなカフェがなく、あってもかなり混雑していたので、カフェに寄ることなく直帰した。
本当は梟書茶房に行きたかったが、店の前に行列ができていたのですぐに諦めた。

混雑していても待てば入れるのだが、ゆっくり滞在することができない。待っている人のことを考えるとあまり長く居続けるのはなんかダメな感じがするし、というか店員の「圧」を感じる。よって時間を意識せざるをえないのだが、まあそんなことはしたくないのである。

実は、そうした悩みを解決できるお店が初台や西荻窪の方にあって、僕はそこに何回か通っているのだが…それに関することはまた後日独立した記事で書きたいと思う。

ただ重いだけの鞄になった

今日の感想!とにかく暑かった!!
日中の気温は30℃に達していた。いや、まだ5月よ?こんな調子だと8月とかどうなるんですか?勘弁してくださいよ。

これだけ暑くなってくると、流石にマスクをし続けるのがしんどくなってくる。個人的には外で、一人でいるときは別に外してもいいのでは…と思うが、世間的にはどうなのか。熱中症のリスクとかを考えると、外した方が…と思う。なんとなく、今年の夏を経てマスクの着用もだんだん減っていくのではないかなと思っているが、果たして、、

とにかく、自分としては暑さとどうやって折り合いをつけていくかが、今後の生活の争点になってくるだろう。

最近注目の映画はトップガンの最新作(!)。あとは流浪の月も見てみたい。あと犬王も。どれかを来週中に観ようと思います。

(2022/05/29)

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