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7月25日 閉じたコミュニケーション/『地球の歩き方 東京』

やるべきことを片付けたぞ。
偉すぎる。

今日読んだ記事。

現代社会で理想とされるコミュニケーションの様式――明るく、開かれた態度――からすこし距離をおいて、別様のあり方を探る。

一般に主体のあり方をめぐっては、外に向かって「開かれ」ている方がより望ましく、逆に自らのうちに「閉じて」しまうことは望ましくないという、なんとなくの印象がある。言い換えれば、よりコミュニカティブであることが素晴らしく、そうでないことは悪いことであるという、うっすらと、しかし広く蔓延した信念のようなものが存在する。

近年、精神分析においても注目を集めている「自閉症」や「アスペルガー」が治療すべき病、定型的な主体モデルから逸脱した異常性として捉えられている背景には、おそらく、そうした常に「開かれ」ていることへの、そして「開かれ」ていることこそが正しいのだという、ある種のオブセッションがある。あるいは「コミュ障」や「コミュ力」なる言葉が広く流行し、カジュアルに用いられている背景にあるものも、それと同じものかもしれない。

しかし、果たして本当にそう言い切ってしまってよいのだろうか。いや、そもそも、外に向かって「開かれ」ている状態がコミュニカティブであり、自らのうちに「閉じて」しまっている状態はコミュニカティブではないという見立ては、本当に妥当な見立てだと言えるのだろうか。あるいは、そうした見立ては、逆説的にコミュニケーションの多様性を疎外し、人々を孤立させてしまうものとも言えないだろうか。

「現在一般にコミュニケーションであると考えられている仕方とは異なるつながり方があるのか。現在の自閉症研究が、その一つの試金石になっているように思っています」

精神科医であり、ラカン派の精神分析の研究者である松本卓也氏は、「自閉」のもつポジティブな可能性について、そう語る。また、その可能性を探る上で鍵となるのは「水平的な小さなグループ」を形成することであり、そうした小さなグループが起こす「ローカルな革命」こそが現代において大事なことなのではないか、とも。
松本 先ほども言ったように、「自閉」には「内面生活が豊かになる」という側面があることが最初から指摘されていました。しかし、いかに内面生活が豊かであろうと、外部とコミュニケーションを取らない以上、その豊かさは外に表れづらい。その豊かさが認識されないという不幸な状況が長らくあったわけです。しかし、近年、自閉症やアスペルガー症候群が注目されるようになったことで、自閉症スペクトラムをもつ人々のアート作品なども注目されるようになっていますよね。

ただ、現在、彼らに注目が集まってしまっているというのは、現代社会において、コミュニケーションこそがいいものと見なされている、つまり、他者と円滑に言葉を交わし、相互に理解するという形の繋がり方こそが素晴らしく、あたかもそれ以外にコミュニケーションの形がありえないかのように捉えられている、ということの裏面でもあるわけです。それこそ「コミュ障」という言葉が流行したり、SNSなどを通じた「つながり」が過剰に賛美されたりというのも、その一環でしょう。「コミュニケーション」や「つながり」を重視することそれ自体が悪いというわけではありませんが、あるひとつの定型的なやり方で繋がることばかりが重視されてしまっているように思います。その繋がり方にうまく乗れない人たちが「自閉的」であったり「アスペルガー」だと名指されているとも言えるわけです。ここに一つの問題があると思います。
松本 そもそも、自閉症ではない人たちがコミュニケーションだと思い込んでいるものなんて、実は大したコミュニケーションでもないんですよ。「おはよう」って言われたから「おはよう」って返そう、ついでに天気の話でもしておくか、みたいなもので、そこに含まれている情報量なんて実際にはほぼゼロだったりする。我々は普段、ただコミュニケーションをしていると思い込んでいるだけだとも言えるんです。
松本 子どもはそうなりますね(笑)。それと、コミュニケーションはコミュニケーションをしないことを含めてコミュニケーションなんです。一時的に一人でなにか同じ動作をずっとし続けるといったことも非常に重要で、そうしたことを可能にする上でもグループが大切なのだと思います。

「閉じる」ことによるコミュニケーションのあり方について、たびたび考えることがある。
行為しない行為をいかに社会に接続させるか、理解不能な領域をいかに保持するか、水平的な関わり方と垂直的な関わり方……。

バチェロレッテをみていると、番組がコミュニケーション優位の場であると感じさせられると同時に、行為しない行為の特異性なんかも浮かび上がってきて、面白いと感じる。

記事で書いていることは正直あまり理解できていないし、はっきりとした言葉にすることもできていない。でもなんか自分の問題系に触れているような気がするので、折に触れて考えたいと思う。

今日の本の紹介は『地球の歩き方 2021-2022年版 東京』。

前回では京都について書いたので、今日は東京について紹介したいと思った所存である。

長らく地球の歩き方は、日本以外の海外についての旅行ガイドブックとして名を馳せてきた。
実家にもヨーロッパあたりの本が何冊かあったと思う。

そんな「地球の歩き方」が東京を取り上げることになった。
旅行ガイドとしてはかなり分厚く、ページ数は464p。

内容もかなり充実しており、旅行ガイドとしてだけでなく、なにかの資料としても使えそうだ。

この東京版はかなり売れたようだ。

面白いのは、このベストセラーをうけてか、他の地域の地球の歩き方が続々と出版されたことである。

多摩地域版

京都版

沖縄版

北海道版

ムー版(!?)

ジョジョの奇妙な冒険版(!?)

…というように、もはや異世界や漫画の世界までも地球の歩き方スタイルで一冊の本になっているのである。
ムー版はかなり売れ行きがいいらしい。

こういう、旅行ガイド見ているだけでも面白いよね。
一家に一冊いかがですか!

今後日本版も出版が予定されているらしい。
なんでも1000pを超えるとか……。欲しくなってきた。

寝る前に乳酸菌飲料を飲むようにしている。

スーパーにはヤクルトとピルクルが売っていて、見た目や内容量、本数が変わらないにも拘らず、ヤクルトはピルクルの倍の値段する。

なにがあってそんな値段の差が生じているのか気になって、ヤクルトとピルクルを飲み比べてみた。

結果、そんなに変わらなかった。

確かにヤクルトの方が味が濃い気がする。
味が濃いと乳酸菌が多いような感じがする。だからヤクルトの方がいい気がする。

でも、乳酸菌の量って味の濃さで決まるものなんだろうか。
単純に砂糖とかが多いだけではないか(知らんけど)。

ということで、自分は別にピルクルでも問題ないなと思い、これからピルクル生活をしようと心に決めたのであった。

晴れ
『円』

(2022/07/25)

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