16 平和と公正をすべての人に

 SDGsという高尚な概念にうつつを抜かしている間に、わたしの細々した生活が更に細る危機を迎えていた。勤務先のコンビニが深夜営業をやめることになり、夜勤要員のわたしは失職した。働き方改革とやらだ。働きながらも、客のほとんど来ない深夜営業は不要だとずっと思っていた。自然淘汰、諦めて受け入れるしかない。
 他人の土地に勝手に住んでいる無職の四十二歳、相当に人生の瀬戸際にいる。終わっている、詰んでいる、分かりやすい言葉が当てはまってきた。しかし不安はなかった。食に困ることはなさそうだ。ビーグル犬が吠えれば、それすなわち食材の存在。いざとなれば犬にお伴して肉食動物を謳歌すればいい。それ以前に草食動物として、畑に落ちている野菜がいくらでもある。これが噂のセイフティーネットというやつだ。駅前に自動販売機しかなくても、この町には生命維持網が張り巡らされている。この町最高、生命問題は解決した。

 生活を朝型にした。早起きすると太陽が高くなる前にやることがなくなったので、歩くことにした。バイトを辞めると人に会わないので、山中ではなく公道を歩いて人間と接触を持つことを心がけなくては。太陽の下で歩くと、ゴミが目についた。PETボトル、パンやオニギリの包装袋、タバコ、レジ袋、発泡酒の缶、それらが側溝や曲がり角に、大抵は半分ほど隠れ、しかし目立たないほどではない絶妙の存在感で落ちている。目に入るたびに拾うかどうかで迷い、拾わなかった。翌日は朝から雨だった。雨の中、わたしはゴミ拾いに出かけた。雨のゴミ拾いという惨めなシチュエーションに浸りたかった。泥にまみれたかった。底辺なりのカタルシスか。ゴミを三つほど拾ってから、気づいた。近年すっかり衰えたはずの記憶力だが、ゴミの落ちていた場所をはっきりと記憶していた。それだけ思いを残してきたということなのか、それだけ周囲と調和できていない違和感ということなのか。思わぬ才能の開花かもしれない。前日に目撃したゴミはすべて拾ったという確信があった。缶は金になるので、貯めることにした。他のものは燃やすことにした。困ったら燃やすに限る。一斗缶に入れ、枝をまぶして火をつけた。白い煙、黒い煙、目にくる臭い、鼻にくる臭い、体に悪そうなのと地球温暖化的罪悪から、離れて見守った。
 毎日、散歩した。散歩するとついゴミを見つけ、しかしその日は拾わない。翌日、記憶を頼りに拾い歩く。そして燃やす。一週間ほどで拾うものがなくなったのでSDGsに復帰することにした。人生を踏み外さないために、次は最も高尚な気がする十六番にした。地球温暖化は少し先延ばしにした。いま取り組む自信はない。

 十六番は、殺人、暴力、人身取引を撲滅し平和で公正に生活しましょうという、理想の中の理想だ。一日の散歩で出会う人の数が一桁台のこの町では、またまた縁遠い課題だった。いつもの無力感、これにはだんだん慣れてきた。その無力の先に何かを見つけて行動する、光明とは言い得て妙だ。夕暮れ時にハンモックに揺られていると、人身取引に心当たりをみつけた。毎週水曜日の夕方から夜中まで、駅前の自動販売機前で若い外国人の女性が四、五人、集まって宴を開いていた。その座からは、万国共通、夜の接客業務に従事している女の甘い香りがした。隣町にあるクラブか、旅館の宴会か、それらのアフターのサービスか。英語ではない外国語だったのも、それっぽい。
 無職のバツイチに恐れるものはないので、水曜日になると、身なりを整えて駅に向かった。手土産に大量のチョコレート、久々に買い物をした。女子へのチョコレート効果は抜群、すぐに打ち解けた。わたしが元コンビニ店員で、いまは無職だと認識されていた。ペルー人二人、ルーマニア人、ジョージア人、チリ人の五人だった。ジョージアという国が分からず、説明を受けてグルジアだと理解したところ、ジョージアと言えと叱られた。グルジアはロシアに征服されていた時代の呼び方らしい。近くで話して観察してみると、彼女たちには悲壮や哀愁がなく、シャツや短パンからの肌の露出は多めだが雄の本能を直接つかむような艶がなかった。五人は全員、隣町の旅館の調理場勤務で、社員寮がこの町にあった。パンとスイーツで人気を取り戻した老舗旅館だった。日本のパンの技術を習得しようとFacebookの募集を見て来日してきたらしい。ちなみにダークサイドを想像した甘い臭いの原因は座の真ん中に並んだスイーツたちだった。

 わたしは家に戻ると、身体中を掻きむしった。駅の近くに行くとよく蚊にさされる。見えないところで水が淀んでいるのだろう。わたしには淀みが見つけられない。今回の16番、見切り発車して的外れ。しかし平和的な宴だった。世界各国の人たちが車座になって笑った。夏の良い思い出である。夜が肌寒くなってきた。もう夏も終わる。冬に向けて、生きるための活動が忙しくなっていく。仕事をどうするか。労働の対価としての金が必要だとは思えなかった。ここ数週間、チョコレート以外に金を使っていなかった。例えば今日、虫さされのかゆみ止めでも買えば良かったのだろうが、我慢できるものを買って解決するという発想がなかった。せめてこれ以上さされることがないように、ヨモギを焚いて寝ることにしよう。

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