9 産業と技術革新の基盤をつくろう

 日本の産業、世界の産業はズタズタらしい。実感なし。この町には変わらない風景が広がっている。元々産業がないから、産業の停滞は関係ない。外貨は稼げないが、稼ぎがなくても困らない。無職は無職のままである。

 夜明け直後、私は備えてレモングラスを採集にいった。山や畑にではなく、別荘街に。別荘街は山の上にある碁盤の目状に整備された区画である。区間に入ってすぐの管理事務所の前で赤い蛇口を捻る。温泉の熱さを確認する。横の青い蛇口を捻り、天然水で喉を潤す。監視カメラに会釈する。
 季節外の別荘は閑散としている。GWが近くなれば業者か当人たちが来て別荘らしくなるのだが、4月の庭は荒れ果てた草むらである。別荘の家庭菜園には大抵、ハーブが植えられている。私のお気に入りはレモングラス、水につけておけば最高の清涼飲料水である。試されたし。
 ところが今年は違っていた。私の行きつけの庭の家の前に車が止まっていた。この家、夏や冬の長期休暇以外に人がいたことはなかった。勝手に門を開けるわけにもいかなかった。用事は別の無人の家の庭で済ませた。
 静寂のはずの別荘街の中央通りを歩いていると、人の音がして、珈琲とトーストの臭いがした。多くの人が東京から疎開してきているらしい。妻と同じというわけだ。コロナの影響がこの町にも来ていた。

 夕方、駅に妻がいなかった。電車から降りてきたスイーツ女子たちは慌ただしく帰っていった。駅員いわく、この町はいま好景気に湧いている、みんな大忙し。駅員が指差した先にはQRコードだけが印刷されたポスターが貼ってあった。どうやらそれが妻が立ち上げたサイト、スイーツ女子たちの作ったパンの宅配販売。
 老婦が大きな手提げバッグから野菜をはみ出させてやってきた。駅員が別荘街の住所を伝え、紙袋を手渡した。これからパンの宅配と、ついでに野菜を売りに行く。採れたて野菜は良く売れる。魚も持っていけば売れるから夫は毎日釣りに行っている、とのこと。あなたも暇なら手伝えと言われた。私は笑ってごまかした。
 妻がマウンテンバイクでゆっくりと走ってきた。パンを売ってるんだって、と声をかけた。妻は駅員から麦茶を受け取り、一気に飲み干してから、話しはじめた。商品と商機があったので、それを形にした。商品はスイーツ女子たちの作るもの、商機は別荘街の人口増加のこと。ネットで注文を受けたパンを届けて、野菜の注文を受けてくる、注文がなくても魚を持っていったりする、必要なら調理の補助をする。家の固定電話か郵便以外に連絡手段を持たない人たちには、駅員や郵便局員やコンビニ店員、そのほかスマートホンを持っている町の人たちが宅配先や宅配物の受取場所を教えている。駅員は大活躍。デジタルとアナログが適度に融合したネットワーク、うまく機能している。
 妻は雄弁に語った。あなたも暇なら寿司でもキムチでも売ればいいのにと言われた。私は笑ってごまかした。

 これはそのままSDGs9番、産業と技術革新の基盤をつくろう、である。都市中心の産業がズタズタになり、避難してきた人たちとこの町の人たちで小さな産業が立ち上がっている。私は手伝う気にはならず、見守ることにした。SDGs9番を邪魔せず見守るという活動中である。

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