15 陸の豊かさも守ろう

 タイトルに違和を感じた。個別の目標なのに、”豊かさも”と、”も”なのはどうなのか。英語では”陸の生命”とあり、”も”感はどこにもない。本質がいかに高尚でも端の些細なことで台無しになるのが昨今なわけで、心配になってしまう。そうならないように、この十五番を盛り上げたい。陸の豊かさ”も”、わたしの周りに溢れている。持てるものの余裕によって、正攻法なSDGs活動が期待できる。十六番とは、世界は砂漠化が進んでいる、それを阻止し、森林と森林で生きているものたちを守ろうという感じ。森林生活者のわたしは守られるべき対象になるのだろう。誰かに存在を認められて支持される、それもワールドワイドに。なんとも気分が良い。

 この辺の森は窮地に立っているのだろうか。自然的な砂漠化は起きそうになく、人口的な伐採はもっと起きそうにない。駅前にジュースの自動販売機しかない状態を、特に不便と感じない人たちが住んでいる町である。誰も町を開発しようとはしない。ハードとしての森は安泰と言っていい。ではソフトとしてはどうか。わたしも森のソフトの一部だ。わたしの開墾は生活のため、ご容赦を。木、虫、動物、植物、空気、菌、もちろん水も、守らなくてはと思うが、何もしなくても大丈夫な気もする。また実感のないSDGsと悲観してみたが、その実、反対で、この町はSDGsの優等生なのかもしれない。そんなことを考えながらハンモックに揺られていると、光るつぶらな目、鹿だった。普段であれば音を立てて追い払うところであるが、優等生はコンタクトを取ろうとした。目を逸らさず、ゆっくりとハンモックから降りた。仲間オーラを出しながら、ルールールーと呼んでみた。鹿は逃げるでもなく、普通に去っていった。

 鹿には頻繁に遭遇する。増えて困っていると聞く。そこでわたしはハンターに会いに行こうと決意した。まずは有識者に会いに行く、仕事の基本である。心当たりがあった。ポケットが所狭しと並んでいるチョッキを着ている人がたまにコンビニ客として来ていた。男は一週間と待たずに現れた、正にハンターな格好で。興味があることを伝えると、寄り合い場所を教えてくれた。
 地元の老人三名と東京から来た若者二名。若者のうちの一人の女性からの、深夜のコンビニバイト者への偏見を乗り越えると、自給自足的な生活への尊敬の眼差しを手に入れた。マニアにありがちな態度だ。彼女に認められると、なぜか犬が足元に寄ってきて、一度だけ吠えた。白地に茶地に黒のビーグル、吠えたのは挨拶だということが何となく分かった。翌週の狩に誘われた。夏の鹿は美味しいと言われたが、狩と肉が結びつかなかった。寄合所の裏に案内されると、屠殺場があった。消毒と割烹着で中に入った。プレハブ風だが、中は実験室か給食室のように清潔だった。鉄と消毒の臭いがした。冷凍庫に形のわかる塊が並んでいた。
 狩を断ると、この後のバーベキューに誘われた。犬が吠えた。わたしは焼かれていく鹿肉を前に手を合わせた。食事に手を合わせたのは生まれて初めてだ。屠殺場の後では食欲が湧かないかと思ったが、そうでもなかった。人間の本能、生きる力に関心した。肉の鮮やかな赤と、その赤から想像した通りの上品な肉味が印象的で、ナイフ&フォークの世界だった。都会的だった。

 土産にもらった肉でハンバーガーを作ることにした。小麦をこねて、ピザ窯でパンを焼く。肉をミンチにして、カマドで炭火焼き。近所の畑で拾ったタマネギは生のまま。ケチャップの赤が鮮やかだった。身体中に肉の臭いが染み付き、ナイフ&フォークの世界ではなかった。それでも肉を叩くときやハンバーガーにかぶりつくとき、その前に手を合わせていた。わたしの十五番での行動はこの手を合わせたことだけだった。祈りは、最も安易で、無責任で、無力である。持てるものの余裕を生かせなかった。SDGs手強し、こんなにやる気があるのに、何もさせてくれない。やはり十五番の現場に行って、植樹でもするべきか。
 森林生活者は、十五番の対象である。わたしが充実した日々を送ったこと自体がSDGs的と言えなくもない。十五番行動をはじめてから、わたしの生活は充実していた。鹿という新たで身近な陸の豊かさを堪能し、友達ができた。ときどき遠くで犬が吠えるのである。

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