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「ふたりのあいだに在る写真」第5話

今日はもうこれ以上、写真を撮ることは止めにしようと思っていた。
上半身に何も身に着けないまま彼女は、ぼくの目の前にいる。両の腕を胸のあたりで組んで乳房を隠し、やや背中を丸め、俯き加減で椅子に座っている。目は虚ろで、こちらを見ていない。このままだと、彼女は泣き崩れてしまいそうだった。
花束を胸に抱いた自分を撮ってほしい ―  その願い通りに、ぼくは彼女の姿を撮影した。36枚撮りのフィルム1本半ほどは既に撮り終えていた。買っておいたフィルムはまだあと3本残っている。だが、このあとも撮影を続けることはもう無理だろう…
1本目のフィルムには、シャツを着た普段のままの彼女の姿が収められている。そして2本目に進んだ時、りょうは、自らの意志でシャツを脱ぎ、胸の下着を取り去った。胸の大事な部分はぼくに見せないように花束で隠し、「この姿で撮ってください」と彼女は言った。
知り合ってから約3か月。初めてのキスをした日から2か月。これまで、りょうの裸を見たい、触りたい、という気持ちを抑えながら付き合ってきたぼくは、乳房こそ見えなかったが、少しだけのぞく胸元や、細く白い腕、そして腰のあたりの滑らかな肌を目の前にし、にわかに起こった欲情に引き寄せられつつも、思わず見惚れてしまった。
「恥ずかしいから、はやく撮ってください!」― はにかんだ笑みではなく、屈託のない凛とした笑顔で、りょうはそう言ったのだが、その時と比べ、いまの彼女の様子は全く違っている。
2本目のフィルムの半分ほどを撮り終えたところで、りょうは、抱えていた花束を膝元に下ろしたのだ。彼女の胸を、そこでぼくは初めて見た。その刹那、感激と同時に、ぼくに驚きの感情が起こらなかったと言えば嘘になる。なぜなら彼女の体には、左の乳房がまったく無かったからだ。右には女性らしい膨らみがあるのだが、左の胸は、脂肪も筋肉も削ぎ落とされたように平らで、乳首もついていなかった。
りょうの顔から明るさは消えた。
これからぼくに胸を見せようと決意していた時には真剣な面持ちに変わり、乳房を露わにして「どう思いますか?」とぼくに問うてからは、眼を赤くし、泣きださんばかりの表情になった。


とても綺麗だよ。とても。
おそらく、ふつうの女性とは明らかに異なる自分の胸部のことについての感想を尋ねられたはずなのに、ぼくはそう答えてしまった。だが、間違ってはいない。出会ってから今日までの間に、りょうのことを幾度「綺麗だ」とぼくは思ったことか。この日に限っても、ぼくは何度も綺麗だと感じていた。ただし、それは彼女のいわゆる「容姿」だけに感じていたのではない。会話の際の話し方や声、折々の動作における仕草、そういったものにも、ぼくは綺麗だと感じていた。だからこそ、彼女の上半身のすべてを見て、どう思いますかと問われた時、左の乳房が無いことに驚きはあったにせよ、そう答えたのだ。


着ていた濃紺のボタンダウン・シャツと下着は、彼女が買ってきた花が入っていた大きな紙の手提げ袋と共に、居間の隅に畳んで置かれていた。ぼくはそれを取り上げて彼女に渡し、声をかけた ―  はやく、これを着たほうがいいよ…。
りょうがシャツを着ているあいだ、ぼくは隣の部屋に移り、食卓の上に写真機を置いた。
彼女の気分を、少しでも落ち着かせてあげたかった。ぼくは台所に行き、コーヒーを淹れることにした。
《すてきなカメラですね》
しばらくして、シャツを着終えた彼女がこちらに来て、食卓に置いてあった写真機を見つけて、そう言った。ぼくは、コーヒーの入った2つのマグカップを、同じテーブルの上に置いた。
― このカメラは、祖父の形見なんだ。小さい頃、ぼくの写真をよく撮ってくれた人でね。だから、少年時代のアルバムがたくさん実家に残ってる。
その祖父さんが5年前に亡くなった時に、最後に使っていたこの一眼レフカメラを、ぼくに残してくれたんだ。
《そうですか…お祖父様の…。そんな大切なカメラで今日は撮ってもらえたなんて…ありがとうごさいます》
少しだけ、りょうの顔に笑顔が戻った。
食卓の椅子に座って2人でコーヒーを飲み、このカメラを使って過去にぼくが写真を撮っていたこと、しかし今はやめてしまって、数年ぶりに今日、使ってみたことなどを話した。


その時、いくつかの疑問が頭に浮かび、ぼくはそれを彼女に問い質してみた。
― ところでぼくたちは、はじめて言葉を交わしてからこの3か月のあいだに「写真・カメラ」に関する話題で話し合ったことは無かったはずだよね。それなのにどうして、6日前の月曜日に、自分のポートレートを撮ってほしいと君は「ぼく」に頼んだのだろう。なぜ?
《わたしの好きな人に、撮ってもらいたかったんです。あなたなら、きっと撮ってくれるって感じがしていました》
ぼくがカメラを持っていることは、どこかでわかったの?
《知りませんでした。でも、それは構わなかったんです。どんな撮られ方でもいいから、好きな人が撮る、わたしの写真が欲しかっただけ…。ただ、あなたがカメラを使ったことがある人だってことは、わかってました》
そんなことが何処で判ったのだろう。
彼女の勤め先の印刷所で、はじめて会った、あの日だろうか。それとも、その数週間後に、2人で映画を観た日だろうか。
《…うちで食事を一緒にした、あの日です。商店街を抜けて、わたしのアパートまで2人で歩きました。その途中で立ち止まって「この通りの、ここからの眺めが、わたし好きなんです」って言ったんだけど、その時、あなたは何をしたか覚えてますか?》
ごめん。まったく覚えていない…
《商店街を眺めながら、片目をつむったんです、少しのあいだ左目を。「あっ、この人はカメラで写真を撮ったことがある」って、すぐに気づきました。
父が写真を撮る人なんです。わたしが小さい頃から、家族で旅行なんかに行くと、わたしや母のこと、それから旅先の風景をよく撮ってました。銀色と黒の2色の四角い小さなカメラで。それで父が写真を撮る時よく見ていると、とくに風景を撮るとき、カメラを顔の前で構える前に、先に片目をつむって写す先を少し眺めてから、撮り始めるのがわかったんです》
ぼくには全く心当たりのないことだった。確かに、一眼レフ写真機で写真を撮る際、カメラを顔の前に構えて右目でファインダーをのぞく時には左目は閉じるかもしれない。だがあの時、商店街で彼女に「この眺めが好きなんです」と言われ、ほんとうにぼくは咄嗟に、片目をつむったのだろうか。
《あの時、あそこでもしカメラを持っていたら、あなたは写真を撮ったんじゃないですか?》
りょうがそう言うならば、そうかもしれなかった。彼女が暮らす街の、彼女が好きな風景を、ぼくは無意識に「撮ろう」として、左の目を確かにつむっていたのだろう。


コーヒーを飲み終えた彼女は、いまベランダに出ている。
エアコンの室外機の横に置いてある3人掛けのアウトドア・ベンチに座って、撮影で使った花の茎の端をハサミで少しずつカットし、それを一本一本、水を張ったバケツに浸してやっている。バケツは掃除用のものが家にあったが、剪定バサミは無かったので台所にあった調理用のハサミを渡してあげた。今日はもうこれ以上、写真を撮られたいとは彼女は思っていないようだった。ぼくのほうも、これで終わりにしたいと思っていた。 結局、5本用意したフィルムのうち2本しか使わなかったが、残りの3本で、また別の機会に彼女を撮ってみたいとぼくは思った。
りょうがベランダにいる間に、ぼくは、彼女が座っていた丸型のパイプ椅子を台所へ戻しにいった。それから、片付けてあった座卓を運んできて元どおり居間の中央に置き、押入れから座布団を2枚、出しておいた。
そして、彼女のことが気になって、ベランダに様子を見にいった。
《よしっ。お花、これで少し元気が戻るかな…。わたしが持って帰る時まで水にこのまま入れておきます。あっ、そうだ…、お部屋に少し飾りましょうか?》
買ってきてから撮影に使うまで水を与えられていなかった花たちに処置をしてやったことで気分が晴れたのだろうか、りょうの表情にいつもの穏やかな感じが戻っていた。この花たちの中で最も好きになった1つを、ぼくは部屋に飾ってもらうことにした ―  そうだね。じゃあ、“カラー”を少しだけ、お願いできるかな。


この家に花瓶はない。ぼくは食器棚にあった細長いガラスのタンブラーを渡し、そこにカラーを生けてもらうことにした。
《やっぱりこのお花、かわいいですよね》
カラーは、1本の太めの茎から真っ直ぐに伸びた先がそのままラッパのように広がって白い花弁となり、それが、中央にある束になったフサフサの黄色い雄しべを優しく包み込むような形をした花である 。それを3輪、茎を切り揃えてタンブラーに挿し、彼女は座卓の真ん中に飾ってくれた。
そのあと、花の飾られた座卓をあいだに、ぼくたちは差し向かいで座布団に座った。
あらたまった口調で、りょうが言った。
《今日のことは、すみませんでした。驚かせてしまって…》
自分の胸についてのことを謝っているのは無論すぐに了解できた。だが、わからないことが1つある。それは、ぼくにポートレートを撮るよう頼んだことと、隠していた乳房の秘密をぼくに打ち明けることに、どのような関係があったのかということだ。彼女にそれを聞いてみた。
《自分の写真が欲しかったのは本当です。撮ってもらいたかったんです。でもそれと一緒に、今日なら自然に、わたしの胸のことをあなたに知ってもらえるかも、って考えてました。だから、撮ってもらってる時に、裸になったんです…》
ぼくは、彼女の抱えていた気持ちを顧みず、配慮を欠いた質問をしてしまったのかもしれない。りょうは下唇をキッと噛み、静かに涙をこぼし始めた。これまで表に出すことを抑えてきた感情が胸の内から溢れ出してきたのであろう。やがて彼女は、ゆっくりと下を向いて、ついには嗚咽を漏らし始めてしまった。

《…大学を出て働き始めた頃、この胸のことで、付き合ってた男性とうまくいかなくなったことがありました。
ブラ、見ましたか?わたしの持ってるものは全部ああなってるんです…》
数十分前、今にも泣き崩れそうになりながら裸の上半身をぼくの前に晒していた彼女に服を着てもらおうと、畳んで置かれていたシャツを手渡したとき、いっしょにあった下着にもぼくは手を触れていた。シンプルな白のブラジャーの2つ乳房を覆う部分の片方にだけ、膨らみを持たせるための大きなパッドが縫い付けられていた。
《あなたにこの事を知られるのが怖かったです。だから、どうやって打ち明けたらいいか迷いました。「写真を撮ってもらう」ってことを利用すれば、うまく切り出せるんじゃないかって思ったんです》
この2か月のあいだ、ぼくは男の欲望のままに、りょうの胸を見たい、触れたいと思い続けてきた。
はじめてのキスの後も、情欲を抑えられず彼女の着ていたシャツの胸元のボタンをぼくは外そうとした。あの時、はっきりとはわからなかったが、それを拒んだ彼女はやはり、確かに泣いていたのだ。彼女が抱え続けてきた女性としての肉体の不安に今日まで気づいてやれなかったことを、ぼくは心の内で恥じた。
《わたしの胸を見たとき、綺麗だって言ってくれましたね。…嘘でも嬉しかったです》
りょうの涙は止まらなかった。


自分の写った一枚の写真が欲しいと、きみは言った。
今日撮影したフィルムは明日、現像店に持っていき、そこでフィルムの現像とサービス判のプリントを注文する。それが上がってきたら全てのカットを確認して、その中からぼくが良いと思った写真を、さらに大きく引き伸ばして焼いてもらう。
出来上がったら、約束通り、きみにそれを渡そう。
その写真には、大好きな花たちと共に優しい表情をしている、きみがいるはずだ。もしそれを、今日という日の純粋な一瞬の記録物として、 きみに喜んで受け取ってもらえたら、ぼくは嬉しい。
今日、写真を撮ることで、 いま一度、きみの美しさを感じることができた。
だからこそ、これだけは伝えておく。
りょう。嘘でも綺麗だと言ってくれて嬉しかったと、きみは言ったね。だが、それは間違っている。
写真を撮られている時も、そうでない時も ―  たとえば片方の乳房が無い、その胸を露わにしている時だって、確かにぼくは、きみを綺麗だと感じていたんだ…


《…うん。わかりました。ほんとに、ありがとう。写真、出来上がるの、楽しみにしていますね》
そう言ったあと、彼女は立ち上がって、トイレに入っていった。
ぼくも立ち上がり、ベランダへ出た。そして、エアコンの室外機の上に置いてあったタバコの箱から1本を取り出す。
太陽の位置が低くなり、日の光は少しだけ傾いていた。
しばらくして、りょうは、写真を撮る時に一度はほどいていた長い髪をまた、頭の後ろの高いところで1つにまとめた姿で居間に戻ってきた。


ぼくも居間に戻った。
《お腹、空いてませんか?》
彼女は笑顔でぼくに話しかける。
いつも耳に着けている小さな丸い、すみれ色のピアスを今日ははじめからしていなかったが、今は両方の耳たぶにそれを飾っている。目元にも頬にも、涙の跡はもうなかった。
時刻は17時を少し過ぎていた。確かに空腹だった ―
― うちのマンションの周辺は工場や倉庫が多いから、そこの従業員やトラック運転手たちが行く、美味い店がいくつかあるんだ。 たとえば、ここから産業道路沿いに10分ほど歩いたところにラーメンと餃子が人気の店がある。平日は混んでいるが、今日は日曜だから客は少ないだろう。そこに行かないか?
《ラーメン!食べたかったんです。行きましょう!》


ぼくたちは手を繋ぎ、産業道路沿いの歩道を2人で歩き始めた。
《写真、また撮ってくださいね》

  


(おわり)
ここまで長きにわたり、『ふたりのあいだに在る写真』をお読みいただきありがとうございました。









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