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「ふたりのあいだに在る写真」第1話

『note』創作大賞2024 応募作品

〜あらすじ〜
かつて趣味として写真を撮っていたことのある印刷会社に勤める男が、仕事を通じて知り合った活版印刷所の植字工の女性と付き合うことになった。ある日、その女性から「私の写真を撮ってほしい」と依頼され、彼は彼女のポートレートを撮ることになる。
好意を抱く人物に自分の写真を撮ってもらいたいという願いはむろん女性の本心だったが、しかしこの撮影を機に、打ち明けておきたい秘密が彼女にはあった。

    〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


彼女は、ベランダからの眺めに心をひかれていた。


ぼくの住んでいるマンションは、工業地帯の近くの片側3車線の産業道路沿いに建っている。この道を挟んで真向かいに、横書きで「東洋建材(株)」と壁面に大きく書かれた、薄いクリーム色をしたコンクリートの建物がある。10階建てのこちらのマンションと比べると、高さは同じくらいだが建坪が5,6倍はある。外壁全体に窓はあまり見当たらない。だからこれは、建築資材か何かの倉庫にちがいない。
3階のぼくの部屋のベランダから、この倉庫の正面側がぜんぶ見える。この両どなりの敷地は駐車場になっている。そして下は、ただの道路があるだけである。つまり言い換えると、景色のなかに見るべきものはこの倉庫しかないということになる。


あれは、ここに彼女がはじめて遊びに来てくれた日のことだった。
畳敷きの居間に据えた座卓を挟んで、30分ほど二人で話をしていると、ぼくはタバコが吸いたくなった。部屋の外で吸うことにしているのでタバコとライターを持って立ち上がり、ベランダに出て、そこでぼくは火をつけた。
しばらくすると、彼女もこちらに出てきた。
自慢できるほどではないが、フトンが干せるほどの大きさの自立式の物干し台と、三人掛けの細長いアウトドア・ベンチとサイド・テーブルを置いていても、まだ少しゆとりの残る広さのこのベランダを、ぼくはけっこう気に入っている。 
春の午後のおだやかな陽射しとそよ風が心地よかった。この日は日曜日だったので、平日なら一日中行き交う大型トラックが、下に見える産業道路をほとんど通らず、騒音は邪魔になるほどではない。だからここで、 ベンチに座って2人で話をするのも悪くはないかな、とぼくは思った。
いまは、タバコを片手にして立っているぼくの横に彼女は立ち、すぐに目に入ったのであろう、倉庫のことをまず見上げている。
《すごく、大きいね…》
確かに大きい。こいつさえなければ、ここからの眺めはかなり開放的なものになっていただろう。前の道を挟んで向こう側には、この倉庫以外に大きな建物は無かったと思う。数ブロックにわたり町工場や木造アパートが集まっている区域で、3階のこのベランダからの視界を著しく遮るようなものは見当たらなかったはずだ。
彼女に言った。こいつさえなければ…ここは、もっと居ごこちの良いスペースになっていたはずなのに…
しかし彼女は何も答えなかった。そして無言のまま、しばらくのあいだ、彼女は倉庫を見ていた。その様子から、このベランダからの眺めに彼女はおそらく何かを感じとったのかもしれないと、ぼくは考えていた。


それからというもの、部屋に来るたびに必ず1度はベランダで、彼女は倉庫を意識的に見上げるようになった。
3度目に彼女がここに来た日のことは、とくに印象に残っている。
この日は、部屋に入るなりすぐにベランダに出て、まずは外を眺めはじめた。倉庫を見上げて、彼女は言った。
《こうして見ていると、なんか、落ち着く…。ああいう大きな物のそばにいると、守られてるような安心感が湧いてくる。そんな気がすること、ありませんか?》
ごめん、ぼくにはわからないかな… — そう答えておいて、 少しのあいだ考えた。
この部屋に彼女が来るようになる前から、すでにあの倉庫は存在していた。そしてこの場所からあれを初めて見たときに、視界に占めるその大きさに彼女はまず心を動かされていた。どうやら、この「はじめから存在する」「目の前の大きなもの」に、言い知れぬ頼りがいを感じてしまっているということなのだろうか。
少しまえ、自身の少女時代について彼女が話したことをぼくは思い出した。
《わたし、子供のころは田舎で育ったんです。川と田んぼと緑に囲まれた、とてもいいところだった…
それで…近くに山があって…いま見たらぜんぜん大したものじゃないんだろうけど…でも…家の庭に立ってその山を見上げると、あの頃はとても大きく見えました。見えるものはそれしかないってくらい大きく……》
もしかしたら、その山に対しても「守られてる」と彼女は感じていたのではないだろうか。
感謝・畏怖の念をもって山に祈る、あるいは山に加護を求めるといった古い自然信仰から生じるような感情では無論ない。見上げればいつもそこにある大きな山に、幼い無邪気な感覚を通して彼女はただ素朴に「守られてる」と思っていたのではないかと推察する。
まさか本当に、あの倉庫に「山」を感じているのだろうか?…
彼女がベランダに出ているときは、ぼくもそれに付き合うことにしていた。倉庫を見ている彼女の傍らで、ベランダの外枠に肘をついた格好でぼくはタバコを吸っている。しかし、そうしていてもぼくには、この眺めのなかに特別な何かを感じることはできない。


この日は、夕方仕事が終わる時刻に合わせて、ぼくの勤務先の最寄駅まで彼女に出てきてもらい、電車に乗ってここに帰ってきた。平日の夕刻に、ぼくの普段の帰り途を共にして部屋まで来るのはこのときが初めてだった。
ベランダで彼女は話しつづける。
《帰宅ラッシュの時間に電車に乗ったの久しぶりでした。すごい混んでた。あなたは毎日、ああやってあの街からここまで帰ってくるんですね…大変だと思ったけど、ちょっと面白かった。あの街には朝から午後までたくさんの人が集まって、それで夕方から夜になると、こんどはそれぞれが住む場所へとみんな戻っていく…。街が目一杯ふくらんで、それからフーっと萎んでいく…息をしているみたい》
この国の大都市圏のなかでも、昼間の人口密度がおそらく最高レベルに達するであろう地区にぼくの職場はある。そこからこのマンションに辿り着くのに約1時間半かかる。ビジネスと歓楽の中心地といえるあの街から、ぼくの暮らすような場所へと、一日が終わりに向かってゆく時間帯に人々が流出していくさまを、彼女はそんなふうに捉えていた。
ぼくは黙って彼女の言葉を聞いていただけだった。陽が落ちても空がぼんやりと明るいのは月が出ているからだろう —  そんなことを考えていた。けれど月はここからは見えなかった。
今ぼくたちは、エアコンの室外機の横のアウトドア・ベンチに腰掛けている。 オリーブ・グリーンのコットン製の細身のロング・ワンピースを着た上に、すみれ色のカーディガンを彼女は羽織っている。その姿に、履いている、ベランダ用にぼくが用意したオレンジ色のゴム草履が、偶然にもファッション的によく調和していた。それに比べ、まったく同じゴム草履を履いているが、平凡な濃紺の仕事用のスーツを着ているぼくのほうは、それらが少しもマッチしてはいないのだろう。
彼女と自分についてそんなことを思っていた。
とつぜん、彼女が言い出す。
《…話があるんです。中で聞いてもらえますか?》
2本目のタバコに火をつけていたぼくは吸うのをやめ、サイド・テーブルの上に吸い殻入れとして置いてあったジャムの空きビンに、少し慌ててそれを消し入れる。掃き出しになっているアルミ・サッシのレールをまたいで、ベランダから畳敷きの居間へぼくらは移ることにした。
押入れから座布団を出して、ぼくは彼女にすすめる。居間の中央に置いた黒い木製の座卓をあいだに、2人は差し向かいで座る。
ぼくらは黙っていたが、彼女のほうが先に言葉を発しようとして、斜めに崩していた膝を正すとともに背すじを伸ばした。
《私の写真が1枚、ほしいんです。ポートレートっていうのかな…、そういう、私の写真を、1枚、見てみたいんです》
あらたまって彼女がしたかった話とは、自身のポートレートをぼくに撮ってほしいということだった。しかも、ただ撮るだけではなく、しっかりとプリントされた1枚の写真として残されたものが見たいのだという。
これは唐突な依頼だった。ぼくはすこし戸惑った。なぜ彼女は、ぼくに写真を撮ってほしいのだろう。ぼくは写真家ではないし、写真を趣味にしているわけでもない。彼女だってそれは知っている。それに、写真に関する話題すら、ぼくらの間にこれまでのぼったことはなかったはずだ。
考えているままで何も話をしないぼくに対し、
《あなたの撮る写真で確認してみたいことがあるんです》
と彼女は付け加えた。そして、肩の位置からさらに下へまっすぐに伸びる長い自分の黒髪を頭の後ろに両手を使ってまとめる仕草をして、それから、正面のぼくを見つめていた目を座卓のほうへ伏せた。
おそらく、ぼくの返事を待っているのだろう。


撮るということは、ぼくにとって、決して引き受けられない依頼ではなかった。なぜなら実は、過去に写真をやっていた時期がぼくにはあったからだ。
きっかけは、大好きな祖父の死だった。彼が亡くなって、1台のカメラと交換レンズ3本を、遺品としてぼくは譲り受けることになったのだ。
祖父は写真を撮るのが好きだった。街を散歩したり、公園に花を見に行ったり、むかし祖父は、少年のぼくを色々な場所に連れて行ってくれた。そんな時、いつも彼は、角張った黒い写真機を肩から提げていた。そして、ぼくが定食屋で飯を食べたり、木によじ登って虫を捕まえようとしているところを写真に撮っていた。実家には、彼が作ってくれた少年時代のぼくのアルバムが今でもたくさん残っている。
祖父が遺してくれた写真機は、フィルム式の一眼レフ・カメラだった。これを使って、ぼくも写真を撮ってみようと思った。
休みの日に、祖父のカメラとレンズを持って、通勤ルートにあった1軒の中古カメラ店を訪ねた。その店の表には「カメラの点検・修理承ります」と書いてあったので、いちど相談しようと思ったのだ。
店主によれば、大がかりな修理は必要ない、とのことだった。— 内部の機械は清掃して油を差しましょう。あと、本体の裏側の、フィルムを入れるところに施されている遮光のためのウレタン樹脂は劣化しているので新しいものに交換します。レンズのほうも、まだこれからも使えますよ —


こうしてぼくは、写真を撮るようになった。
祖父のフィルム式一眼レフ写真機を手に、街を歩いた。そして、前を通り過ぎてゆく人々、植込みに咲いている花、落ちているゴミ、商店の看板などを、とにかく無作為に撮り集めていた。時には、人物を撮ることもあった。昔の友達と顔を合わせたときや、帰省の際に久しぶりに甥や姪に会ったときなど、そばにカメラがあると、ぼくは彼らにレンズを向けた。撮り終わったフィルムは現像店に出し、サービス判のプリントも一緒に焼いてもらう。
撮り溜まった写真のうち良いと感じたものの何枚かは、あらためて少し大きな印画紙に引き伸ばしてプリントしてもらうようにした。歩く人の後ろ姿、ゴミ袋の中を漁るカラス、部屋に来てくれた友人、アダルト・ショップの陳列ケース、乗り捨てられた自転車、犬と遊ぶ甥の姿、古本屋の店先 —  出来上がってきたこれらの写真を10枚、20枚と部屋の畳の上に適当に並べ、端から順に見ていく。写っているものたちは1枚、1枚、バラバラである。撮影された時間も存在した空間も何ら共通しない。しかしそれらが「ぼくが見た」という一点だけを接点として、畳の上で隣り合っている…。そう考えながら、自分の撮った写真を楽しんでいた。


しかし、いつ頃からか、撮らなくなってしまっていた。もう2,3年はやっていないだろうか。自分のためだけに撮ることに飽きてしまったからかもしれない。どうしても撮りたいと思うものなどぼくにはなかったし、祖父のように誰かのためにアルバムを作ることもなかった。
だが今はちがう。自分のためではなく、誰かのために撮る — 彼女のために、彼女の写真を撮る — 
写真機とレンズは、カビよけのための乾燥剤のパックと一緒にプラスティックの密閉箱に入れて押入れの上の段にしまってある。たぶん、まだ動くだろう。彼女を撮るなら、ふたたび使うことになる。
彼女はどこで写真を撮ってほしいのだろう。その際、背景にするものなどにも注文はあるのだろうか。撮影する時間帯についてはどうだろうか。
彼女は「確認したい」と言った。ぼくが撮る自分の姿の写真で、いったい何を確認したいというのだろう。
撮影の依頼に応じるかどうかの返事をする前に、ぼくは彼女と詳細について話し合いたかった。


《あなたの好きなように、ただ私を撮るだけでいいから…》
ぼくが話しだすより先に、彼女はそう言った。
場所・時刻・光の具合などの撮影の条件は、ぼくに任せてしまうつもりのようだ。それならば、色味の少ない、単純な背景の前で、表情もポーズも構えていない自然な感じの彼女を撮りたい。
ぼくのためではない、彼女のための、彼女自身のポートレートを、この場所で。
居間の壁は、押入れの対面側がすべて淡いウグイス色の砂壁になっている。これを背景紙の代わりにして、そこから手前に50センチほど離れたところに彼女が座る。上半身のポートレート。
部屋に最もよく陽射しが入り込むのは午後の2時ごろである。サッシ全体にかかっている薄い素材の白いカーテンが、うまく光線を柔らかくしてくれるので、この時間に射し込む光がポートレートにぴったりだと思う。


ぼくは彼女を撮ることにした。
今度のぼくの仕事が休みの日の午後に、この部屋にまた来てもらい、ここで君の写真を撮る—  ぼくは彼女にそう約束した。
彼女は少しだけうなずいて、少しだけほほえんだ。


話が終わったので、夕食の用意をするために立ち上がって台所に向かおうとした。何か作るよと、彼女に話しかけた。
《ありがとう。でも、あまり遅くならないうちに戻りたいから、今日はこれで帰ります》


サッシはすべて開けてあった。夜の風が、かすかに居間のほうに流れ込んできていた。平日なので、産業道路を走るトラックの騒音は、まだ下から聞こえてくる。
帰る前に、もういちど外を眺めるために、彼女はベランダのほうへと立ち上がった。
いちおう、タバコとライターを持って、ぼくもベランダまでついていく。


彼女はやはり、倉庫を見上げる。
ぼくは今日のことを振り返る。
会いたいと言ったのは彼女のほうだった。ぼくの勤め先の最寄駅からこのマンションまで一緒に帰ってみたいと言ったのも彼女だった。そして、写真の件を切り出すタイミングは今日、なぜ、この場所でなくてはならなかったのだろうか。


そろそろ、駅まで送っていくよ、とぼくは言う。
《ありがとう》
と彼女は言う。


そしてぼくたちは、何度目かのキスをした。

         (つづく)↓








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